御するほどの旺盛な生活力が欠けていたからかも知れないが、それよりも私は、偶然の作用について宿命的な感じをさえ懐いていた。偶然が作用する場合、それは機会という言葉に飜訳される。浜田ゆき子に出逢った時、機会がいけなかったのだ。
会社の退出まぎわの時間だったが、給仕が私に、浜田さんという女の面会人を取次いできた。その名前は私の記憶になかったが、とにかく応接室に通さしておいて、出て行ってみると、はっきり覚えがあった。いつのまにか忘れて、而も一目ではっきり凡てが思い出せるという、そういう女に対しては、一寸甘い感情が伴うことも許されるだろう。
「あたしだってこと、お分りになりましたの。」
彼女は一寸お辞儀をしてから、微笑みながら私を眺めてそういった。少し小首を傾げ、乱視めいた眼付で、口をとがらした、その笑顔は、昔の通りだった。だがずっと老《ふ》けて、肥《ふと》っていた。
「まるで分らなかった。浜田さんなんていうもんだから……。」
「お訪ねして、いけなかったかしら。」
「いいえ、ちっとも……。」
私の心は不思議なほど落付いていた。彼女も落付き払ってるようだった。金紗の着物も縫紋の羽織も、もう何度か水をくぐったらしい萎びかたをしていたが、その粗末なみなりがしっくり身体につくほど、彼女は肥って世帯じみていた。あれから名古屋に帰って、暫く小さな店を出してみたが、思わしくないので、今では姉の家に厄介になってるとか、ちょっと用があって東京に出て来たので、どうなすってるかと思って、お訪ねしてみたのだとか、そんなことを彼女は微笑みながら云うのだった。その微笑みから、またその様子から、七八年前の彼女が淡く浮んできた。神田の裏通りの小さなバーにいて、その頃半年ばかりの間、月に二三回、私は彼女を外に連れ出したことがあった。公然とそういうことが出来るバーだったし、彼女も公然と振舞っていたし、他に幾人も男の客があることも分っていたし、凡てが明るい取引だったので、私は却って気が安らかだった。彼女が名古屋に帰りたがってるのを知って、百円ばかりの金を助けてやった私には、何等の私心もなかった。あの時お世話になったきりで……などと彼女は云って、煙草の煙の間から微笑みかけたり、まだ独身《おひとり》ですかなどと、まじめくさった聞き方をしたりした。そうして対座していると、次第に、彼女のとがった口付に愛嬌が出て来、乱視めいた眼付に色艶が出て来て、それと共に、太い頸筋が目立ち、しゃがれた声がなおかすれて、この二三年すっかり堅くしてるという、その肥った世帯じみた様子に、何か濁った汚ならしいものが浮んできた。私は何だか気が引けて、後で逢う約束をして、彼女を帰らした。それから室に戻って、平然と事務を片付け、なるべくゆっくりと会社を出た。そして彼女と待合せる場所が、なるべく会社から遠いというとっさの思いつきで、浅草の雷門前の仲店の通りということにきめたのを、自分で苦笑したのである。
その頃、私は特殊な気持で生きていた。一方では、千代次の死後、その真心の幻を守り続けると共に、もう何如なる女にも心惹かれないという自由な朗かな自信とも決心ともつかないものを持っていて、それが逆に、あらゆる男女関係を軽蔑させていた。要するに、清濁を超えた宙に浮んだ気持なのである。それからまた一方では、経済的にひどく窮迫していて、何かしら漠然たる反抗心が湧いていた。もう浪費することもなく、また浪費しようにも出来なかったが、方々にたまってる不義理の借金や金貸からの負債などは、時間が経過するほど益々重くのしかかってきて、それを一挙に整理するために信子の父に頼んでみたのだが、千代次との過去のことが知れ渡っていたためか、手痛い警告をされた上に断られて、全く整理の見当がつかなくなっていた。以前、杉浦や西田などと交際して、社会問題や被搾取階級の問題などを論じ合い、小さな運動グループを拵えかけていた頃のことが、遠い過去のように思い出され、別種な熱い憤慨が身内に沈潜していた。
私がもし相当に金を持っているか、或は遊蕩の気分でも濃かったら、浜田ゆき子などには一瞥も与えなかったろう。
雷門前の仲町の人通りの中に、小間物屋の前に佇んで、花笄などを眺めてる彼女の姿を、私は遠くから見分けて、再び苦笑を洩した。頸が太く、背が低く、皮膚が荒れ、三十近い年配よりももっと老《ふ》け、吾妻下駄なんかをはいて、小さな風呂敷包をもってる彼女の姿は、人中に目立った。そして私は自分の洋服姿を気にしながら、私の方へ縋りつくような眼付をあげる彼女をつれて、その辺の安価な牛肉店にはいり、酒をのみ飯をくい、ぐずぐずに時間がたち、今晩は帰らなくともいいなどと云いだした彼女と共に、懐中の紙入の中を胸勘定しながら、公園裏に安価な宿所を求めたのだった。
置床と餉台
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