とで僅かに恰好をつけて、昼間の光で見たら方々に汚点が浮出してそうなその室で、私は酒をのみながら、彼女を珍らしげに眺めた。この頃姉の家の手伝いをしてると云って、私にさわらしたその手は、皮膚がかたくざらざらしていた。あれから幾年になるかしらと云って、胸の中で指折り数えて、この頃あなたのことをよく思い出すわと、乱視めいた眼で昔のような可愛い笑い方をした。この頃酒はたってるんだけどと云いながら、平気で私の相手になっていて、その声は昔よりずっとかすれていた。田舎めいた臙脂の襟元がくずれて、化粧の香りよりも体臭の方が――実状はともかく――目立っていた。そして私も彼女も、淡い一脈の昔の夢の名残だけの親しみに満足して、お互にいろいろ訊ねあおうともせず、口先だけの言葉をかわして、二匹の動物みたいに対座していた。
 その夜のことが……。
 ――手記にはいきなり「その夜のことが……。」と続けられているが、茲に不思議なのは、初め信子についてあんなに重く取扱われていた耳のことが、一言も云われていない。恐らく浜田ゆき子の耳は、云うに価しないほど至極平凡なものだったのであろう。或は信子について耳を重要視したのは、無意識的にせよ何かの口実だったのであろう。そして「その夜のこと」の内容について、手記の先の方に暗示的な一節がある。それをここに引用しておこう。
 社員の殆んど全部と社長の懇意な人々とが集っていた。社長の誕生日の招待といっても、年に一度のこうした集会は、依田商事会社の記念会とも云えるものだった。そしてこの記念会だけから見ると、この商事会社は着実な発展をなしてるようだった。招待された人々は、社員を除いて、一年毎に社会的地位も上り、人柄の重みも増してるようだった。新たに知名の人も一二出席していた。万事略式でそして粗餐ということだったが、それらの人々が大抵、ネクタイピンを光らし、ズボンの折目も正しく、中にはモーニングを着込んだものもあって、東洋軒の広間で、白布の上に花を飾った食卓をとりまいて、礼儀正しく食事をしてるところは、如何にも立派だった。私は末席の一つにいて、足高の酒杯になみなみとつがれてる白と赤との葡萄酒が、電気の光にてりはえるのを眺めながら、日本酒をのんでいたのであるが、側の二人の同僚が小声で、俺たちも誕生日にはこうした盛宴を張りたいものだが、一体今日の入費はどれほどだろうかなどと、感歎とも皮肉ともつかない調子で囁きあってるのを、小耳にはさんだのがもとで、僅かな金の工面にも齷齪してる自分の身が顧みられて、うら淋しい気持になった。それが私を更につき落して、浅草公園裏の安宿へ浜田ゆき子を連れこんだ時のことを思い起した。それは幻影に近かった。そして私は考えた。あの時の私の姿を今この席にいる私と置きかえたらどうだろう。私は遂い出されるであろうか。いや、ここにこうして鹿爪らしく控えてる立派な連中にも、人中にもち出せない生活の暗い隅はあるにちがいない。誰だって、何処でどんなことをするか分らない。ただ、こういう立派な紳士たちは、自分で汚らわしいと感ずるようなことは、出来てもしないかも知れない。だが私は、自分で汚らわしく惨めだと感ずるようなことを、平然とやってのけた。これは一体どうしたことだ。
 こういう事柄は、大勢の宴会の中などで考えるべきことではなかったろう。然し私は変に執拗にあの夜の幻影を追った。声がかすれ息が濁って、肥《ふと》ることが荒れすさむことになるような、そういう彼女の肉体を、両手に裸体像を取上げて眺めるような風に、私はもてあそんだ。もう美醜の問題もなく、感情の問題もなかった。自分自身をも相手をも踏みにじってやれということもあるにはあったが、それよりも、ずるずると陥ってゆくどん底はどこだという、そうした漠然たる気持の方が大きかった。たとえ千代次が生きていて、私が彼女に夢中になっていたとしても、私はやはり同じことをしただろう。翌朝、勘定の残りの五十銭銀貨を幾つか彼女の手に握らせ、円タクにとび乗る私を見送ってる彼女のしょんぼりした姿をちらと見、その時だけは、温い心で彼女の肩を抱いてやりたいと思ったのが、私の唯一の人間味であったろう。私は自分を惨めに思い、彼女を哀れに思った。そしてこの華かな宴席の紳士たちを、反抗的に、呪いもし、軽蔑もした。

 経済的に生活の立直しをするため、信子の父の緒方久平氏に歎願したことは、前に一寸述べておいたが、その時私は逆に意見をされただけだった。人の好意を常に当にし、それに甘えてつけ上った要求をもち出すのは卑劣だ、というのが緒方氏の意見だった。実際私は彼に二三度金を借りたことがあったし、母も生存中何かと世話になったのだった。彼は私に二つの問いを出した。川に溺れてる者があって、飛びこんで助けようとすれば、こちらも必ず溺れ死ぬと
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