ってるような素振で、バットを一本とりあげて眺めた。その時私はマッチを自分で取るつもりだったが、机の上になげ出されてる彼女の左手を、そっと握った。
私も半ばは意外だったが、彼女は全く意外だったらしく、全身でびくりとしたが、次の瞬間、私はその滑かな手を強く握りしめていたし、彼女はそれを私に任せて、窓の外にぼんやり眼を向けていた。やがて彼女は煙草をそのまま投げすてた。私は彼女の手を離した。
「まあ、蝶々がとんでるわ。」
彼女はびっくりしたように立上って、軒先をかすめて飛んでゆく白い蝶を眺めた。私も立上ってそれをみた。それから天気のことや郊外のことを話した。そして暫くたって彼女が帰っていく時、私たちはこんどは友だち同士のように笑いながら朗らかな握手をした。
つまらないことだったが、この冒険が、次の事件の機縁だったのである。そして私にこんな冒険をさしたのは、浜田ゆき子とのあんなことがあったからだと思われる。私が手を触れたのは、彼女の手へではなく、彼女の醜い耳へだったようだ。私は自分がいやになっていた。
――茲に一寸註を入れたい。村尾はこう話したことがある。「僕と信子との間柄では、手を握りあうことぐらいは何でもないようだった。それで、もし僕が彼女に愛か憎しみを感じたとすれば、彼女を抱きしめるか殴りつけるか、そういう激しい表現にならなければならない筈だった。が僕にはなかなかそれが出来なかった。卑怯だったのだろう。」
この言を真実だとすると、彼が冒険という言葉を使った意味も分るようだし、その「つまらないこと」のいきさつを長々とこまかく述べているのも、単なる手記上の技巧だけとも思われない。そしてこの次に、可なり長く感想風な文章が続いているが、妙に筆致が浮いてるところを見ると、彼は何か云いたいことが充分に云えない焦躁を感じたらしい。そこをとばして、先へ進んでみよう。
私は信子に対して一種の芝居をしていたようでもある。一人でいると、彼女を思いきって軽蔑してやりたい気持になったが、彼女の前に出ると、妙にうちしおれて元気がなくなった。そういう私を昂然と見下すのが、彼女には嬉しかったらしい。この頃芸者遊びをするかと尋ねて、彼女は笑った。友人にはどんな人がいるかと尋ねて、親友にはよい人を選ばなければいけないと忠告した。私が会社の不平を云うと、現在の職業をいつでも投出すだけの勇気のあ
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