れが古本屋に出てるんです。」
「うむ……。」
父は煙草の煙と息とを一緒に含み込んだ。そして咽せ返りもしないで、悠暢に落付いていた。
「それは面白そうだね。……じゃあ買ってくるがいい。買ってきたらすぐに見せてごらん。」
「ええ。」
母は立上って金を出してきてくれた。
新らしい十円札二枚だった。受取ってから冷りとした。それをてれ隠しに、両手で紙幣を引張って、ぱんぱんとやって見た。いい音だった。
「何をしているんですよ。破けるじゃありませんか。」
「ははは。」と父は人の善い少し馬鹿げた笑い方をした。「実際紙幣の紙は玩具《おもちゃ》にでもしてみたいくらいいい紙だよ。いくら他で真似ようとしても、決して出来ないんだそうだ。」
云いながら、少し禿げかかった額でのっそり立上った。そして近眼鏡の奥に眼を一つぎろりとさして、それから向うへ出て行った。
何だか身が縮こまってきた。……父は感づいているのじゃないかしら。うっかりは出来ないぞ。いつまでもじっとして、黙りこくっていた。
「早く行ってきたらいいでしょう。……あ、そうそう、御飯を食べてからにしますか。」[#「しますか。」」は底本では「しますか。」]
「ええ。」
洋食を食べてから余りたたない腹へ、無理に茶漬を一二杯つめこんだ。
母も一緒に、干物《ひもの》の匂いを立てながら、つつましく食事をし初めた。牛乳だけを飲んだ父は、散歩代りに庭を歩いていた。
「こんど井上さんがいらしたら、昨日の御礼に御馳走をしてあげなければいけませんよ。」
そんなことを云いかける母の側から、ぷいと箸を捨てて立ち上った。が、さて、変に身の置きどころがなかった。
縁側に立ってると、庭の植込の影に父の姿が見えた。
「お父さん、外《そと》に何か用はありませんか。」
一寸機嫌をとるつもりで云ったんだが、父は別に怒ってる風も……疑ってる風もなかった。
「上野はどうだい。……もう咲いたかな。」
庭の隅から伸び拡がってる、低い桜の枝の下を、父は浅黒い顔で歩いていた。
「まだでしょう。」
「そうかな……。兎に角この……桜の咲きかける時分が一番眠いものだが、お前も休みだからって朝寝をしないで、しっかり勉強しなくちゃいけないよ。」
だが……調子も穏かだし、こちらを向いてもいなかった。
あまいものだ……。親馬鹿……子馬鹿……。
ぴょんと飛びはねて、母のところへ戻ってきた。母はまだ飯を食っていた。
「行ってきますよ。」
云い捨てて表へ飛び出した。
後顧の憂いなし。……書物は売れちゃったと云えばいい。
明るく静かだった。何もかも晴れ晴れとしていた。けれど……不思議に気持がぼやけてしまった。何もはっきり浮んでこなかった。
前日から、長い長い時間がたったようだった。
「嘘、嘘、初めてじゃない。」とあの女は云ったっけ。
なるほど、初めてじゃない……かも知れない、と思うほどつまらなかった。
くそ、面白くもない。
二重眼瞼のちらちらした眼付が、何処を探しても見つからなかった。余り晴れ晴れとしていた。
それでもやっぱり……事実は事実だ。
往来の石ころを、下駄の先で蹴飛して歩いた。ころころとよく転った。
そんなもんだ。そんなものだ、童貞なんて。大切でも何でもないただ円い玉、どこへ転ってゆこうと平気だ。溝《どぶ》の中へでも、青空へでも、勝手に転ってゆけ……。
こつん……こつん……と、下駄の先に当る石ころの音が気持よかった。
昨日俺を連れ出した井上のとこへ行って、どんなもんだい……とこっちから云ってやったら……。或は父と母との前に何もかもぶちまけて……。第一父母なんてものが可笑しかった。
懐手の先で探ってみると、すべすべした紙幣がたしかにはいっていた。……大事に使わなくっちゃ。
あなたが好きになったって……馬鹿にしてやがる。
然し……どうしていいか分らなかった。余りに晴れ晴れとした暢《のびや》かさだった。どこかへ……まん円いものが転っていって見えなくなっていた。涙が出そうなほどすがすがしい胸心地だった。
どうしたら……畜生……。しきりに石ころを蹴飛してやった。
底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「中央公論」
1925(大正14)年4月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年11月27日作成
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