童貞
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)浴槽《ゆぶね》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]
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 ぼんやりしていた心地を、ふいに、見覚えのある町角から呼び醒されて、慌てて乗合自動車から飛び降りた。それから機械的に家の方へ急いだ。
 胸の中が……身体中が、変にむず痒くって、息がつけなかった。頬辺から鼻のあたりに、こな白粉の香がこびりついていて、掌で……それからハンケチで、いくら拭いても取れなかった。拭けば拭くほど、ぷーんと匂ってきた。
 嬉しいようで、なさけないようで、ほーっと息を吐くと、その息の根が震えた。
 晴れてるのか曇ってるのか、底知れぬ茫とした空だった。……が、宵闇に浮び出てる軒燈の灯が、きらきらと、珍らしくて美しかった。
 よその家へでも迷い込むような気持で、静に自家の玄関へはいった。誰も出迎える者がない……よかった、と思うとたんに、女中が立ってくる気配がした。それが却ってきっかけとなって、つかつかと茶の間へはいっていった。
「まあー、朝から出たっきり、どこへ行っていました。」
「井上君のところで遅くなって……。」
「そう、御飯は。」
「済みました。」
「やはり井上さんのお宅で……。それならいいけれど、こんどからは、御飯はどうするかちゃんと云っておかなければ困りますよ。あなたのために随分待ちましたよ。」
 それっきりだった。……母は何にも感づいてはいないんだな。
 だが……天井からぶら下ってる電燈、茶箪笥や長火鉢、父の読み捨ての夕刊、それを丹念に読んでる母……昔からその通りで、そしてこれからも永遠に……。畜生、何もかも……。
「お母さん、」
「え。」
 夕刊から振向いた母の眼が、嘗て見識らぬ愚鈍な者の眼付だった。
「僕は今日、素敵なものを見たんです。自動車と荷車と衝突して……。」
「そして。」
「正面からぶつかったんです。すると……荷車を引いた男の眼玉が、ぽんぽんと二つ共とび出しちゃって……。」
「え、何ですって。」
「夕刊に出てませんか。」
「夕刊にですか。」
 その隙に、煙草を一本袂から探って、すぱすぱやってみたが、気のせいか、頬辺にやはり白粉の香がくっついていて、どうにも困った。
 向うの室から、放笑しそうなのをじっとこらえた顔付で――眼付で、お千代が見ていた。そのぽっちりした赤い頬辺に、飛んでいってかじりついてやったら……母の眼の前で。
 母の頸筋が、生え際が、薄ら寒そうに細そりとしていた。
 何だかぎくりとした。その拍子に、トトントントン、トトントントン……指先で火鉢の縁をやけに叩いてやった。
 なぜ皆黙ってるんだ。
「ダンスでも習いたいな……。」
 トトントントン、トトントントン……。
「まあー、どうしたんですよ、口の中でぶつぶつ云って、そして……。」
 トトントントン……。顔が一寸挙げられなかった。
「僕は……ダンスを習いたいんだけれど……。」
 擦り寄ってきて、肩のあたりと腿のあたりとの厚ぼったい重みで、焦れったそうにトントンとやった、彼女の肉のはずみが、今ふいに蘇ってきて、とても抵抗出来なかった。指先から次には身体中で、トトントントン、トトントントン……。胸の底がほてってきて、息苦しかった。
「おかしな人ですね。どうかしたんですか。」
 今迄見たこともないような、赤の他人の眼付で母が覗きこんでくる…とはっきり意識したが、それが見返せなかった。
「少し酒を飲ませられちゃって……。」
「お酒を。」
「そして急いで帰ってきたもんだから、汗をかいちゃって……。」
 出まかせに云い出したのが実は本当で、身体中がねとねとして気味悪かった。
「それでは……あの、お湯にでもはいったら……。」
「お湯がわいてるんですか。……すぐにはいろう。」
「今加減を見せますよ。」
 母が女中を呼ぶのを待たないで、もう帯を解きかけながら、湯殿の方へ馳け出していった。

 首筋まで全身をぐったりと湯に任せ、後頭部を浴槽《ゆぶね》の縁にもたせかけて、もーっとした湯気の中から、ぼんやりした電燈の目玉を眺めていた。
 何にも考えることが出来なかった。身体の節々に力がなかった。はずみをつけて動いていた気分が静まり淀んで、それから、疲れきったのろい渦を巻き初めた。それに引き込まれて気を失いそうだった。
 きりきりと金物の軋るような音が……ごーっと暴風の吹き過ぎるような音が……どこか遠くでしていた。
「……お加減は……。」
 はっと我に返って立上った。湯をじゃぶじゃぶやった。――誰が加減なんか悪いものか。
「あの……お加減は如何でございますか。」
 戸の外からお千代の声がはっきりしてきた。湯の加減だったのか。……丁度ぬる加減でよかったが、然し、頭がふらふらしていた。
「丁度いいよ。」
 元気よく答えてやったけれど、それだけで、身を動すのも大儀だった。
「床をとっといて下さい、すぐに寝るんだから。」
 誰にともなく大きな声で云っておいて、湯殿から飛び出しかけた。が、……茶の間をぬけて寝室の方へ行くのには、母の前を通らなければならなかった。着物を抱えて真裸のままで母の前を……。
 そんなこといつだって平気だったんだが……。
 ふと、咽せ返るような追想に、足が竦んでしまった。
 意気地なしめ、なあに……。
 擽ったいような気持で、歯をぎりっと一つやって、猛然と突き進んでいった。
「もう寝むんですか。」
「ええ、頭痛がするんです。」
 云いすてて、柱時計の方を見上げながらのっそりと、それでも九時半頃だと見て取っただけで、裸のまま母の前を通りすぎてやった。が次には小走りになった。
 大急ぎに寝間着をひっかけて、頭まで布団の中にもぐり込んだ。
 とっぷりと水底に沈んだような、落付くところへ落付いた感じだった。そしてそれがなぜか、全身無気力に投げ出されたまま竦んでしまって、身動きが出来なかった。
 一度……或は二度……母が様子を見に来たようだった。が黙っていた……というより、本当にはっきりとは意識しなかった。
 二重眼瞼《ふたえまぶち》の眼がちらちらと動いていた。それが時々じっと真正面から覗きこんできた。
 胸の奥がきりきり痛んでいた。
「あたし、あなたが好きになった。……ね……ねえ……。」
 感情に抵抗してみるつもりだったのが、その「つもり」のために、却って自分の方から落ち込んでいった。
「あたし、何だか顔見られるのが嫌なのよ。」
 畜生……と思って黙ってると、顔が真向になってきた。
「何を考えてるの。」
「困った。……君が好きになりそうだ。」
「そう、嘘にせよ嬉しいわ。」
 二重眼瞼の眼が、瞬くたびに微笑んでいた。それが、なりそうどころではなく、本当に可愛くて好きになった。
 どうしたらいいか分らなかった。
 すぐそこに近々と微笑んでる眼が、いつまでも消えなかった。
 それが、夢にも……現《うつつ》にも……朝まで続いた。他の一切はどうなったって構わない。その眼だけが……。
 八重という名前の下に、「さん」をつけ、「ちゃん」をつけ、「子」をつけ、更にまた、「子」に「さん」や「ちゃん」をつけ……あらゆる名前で呼んでみた。そして最後に、八重子……。ちらちらとする眼が微笑んでいた。

 母が二三度起しに来た。上の空で返事をして、やはり頭から布団にもぐりこんでいた。温気に息苦しくなると、頭を覗き出して眼をつぶった。
 我慢出来なくなって起き上った。もう十一時を過ぎていた。
「加減でも悪いんですか。」
「何ともありません。」
 冷たい水で顔を洗った。悲壮な気持だった。……母なんか、家なんか、何もかも、どうとでもなってしまえ。……そのくせ、誰の顔も真正面には見られなかった。むっつりと黙りこくっていてやった。
「御飯は午《ひる》に一緒に食べます。」
 食う気もなかったが、そう云っておいて一寸外に出てみた。
 晴れてはいるが淡い日の光だった。それでも強すぎた。桜の枝に蕾が赤くふくらんでいた。垣根の下に、青い草の葉が三つ四つ、冬を越したのか――そんな筈はないが、もう萠え出したのか――それもおかしいが、力なく首垂れていた。
 薄暗い悲壮な気持にとざされて、胸がしきりに痛んだ。
 広い通りに出て、そこのレストーランにはいった。
「定食。……それから、日本酒を一本くれ給い。」
 うっとりと思いつめた気持のために、装わずして大人《おとな》の態度になっていた。
 片隅に三人の客があった。そちらに背を向けて、白い壁と睥めっこをした。花瓶の半開きの桃の花が、淋しげに淡々としていた。
 ゆっくり酒を飲むつもりだったが、料理の皿が次から次へ早く廻されてきた。
 気の利かないボーイだな。……何とか云ってやろうと思ったが、変に顔を見られる気がして云い出せなかった。それでも、料理はうまかった。チップを奮発してやった。
 一人で……あの家に行って、名差しをすれば、彼女は来てくれる筈だった。……そこへ、大きな地震でも来て、がらがらっとなって、二人だけ生き残って逃げ出す……。
 馬鹿な……。だが、何もかもひっくり返ってしまえ、濛々となってしまえ。
 日の光が恐れられた。……暗く、天地晦冥になってしまえ。
 胸が切なくしめつけられて、きりきり痛んだ。二重眼瞼の眼がちらちらして、目近に微笑んでいた。
 電車や自動車や自転車が、素張らしい勢で走っていたけれど、みな、宙を飛ぶようにふわふわしていた。着飾った女共が、どいつもこいつも醜かった。通り過ぎる男共は、馬鹿げた顔をしていた。……だがそんな奴、俺は天下に一人も用はないんだ。
 痛む胸に彼女の眼付を秘めて、一心に想い耽って、当もなく歩き続けた。
 犬の仔が幾匹も面白そうにふざけていた。

 決心をきめて、眼を据えながら家に帰ってきた。母の出よう一つでは、こちらにも覚悟がある、と思っていた。
 ところが……口元に笑みを浮べて、やさしい眼付で迎えられた。
「気分はどうなんです。」
「何でもありません。」
 不機嫌にぶっきら棒に答えたつもりだったが……。
「どうしたんです。面白そうに……にこにこした顔をして……。」
 びっくりして、きょとんと首を傾げてみた。
「何か嬉しいことでもあるんですか。」
 張りつめていた気が弛んで、その拍子に、ふいに、飛び上りたいほど嬉しくなった。
「愉快なことがあるんですよ、お母さん。」
 とんとんと歩き廻ってやった。それが自分でも変で、ゆっくり考えなければいけないと思いながら、何にも考えられなかった。計画してたことだけがすらすらと口から出た。
「めっけ物をしたんです。素敵な書物があるんです、古本屋に。……二十円下さい、すぐに……。」
「二十円ですって……。」
「ええ、それは大変安くなってるんです。早く買わないと、他にも買手がついてるんです。是非いる本なんです。」
「そんなに急いだって……。」
「いえ、急ぐんです。……買いたいなあ。」
 堪らないような風をして、室の中をとんとんと歩き廻ってやった。
「そんなにほしいものなら、お父さんに話してあげましょう。」
「え、お父さんに……。」
 しまった……。父の存在をすっかり無視していたが、丁度父が家にいる日だった。……だが……まあいいや。
 やけ糞に落付いてきて、火鉢の側に屈み込んだ。ぼんやりして、淋しかった。
 そこへ、父がわざわざ書斎から出て来た。
 困った、困った……という気で縮こまっていると、父は仕事疲れらしい伸びをしてから、煙草を吸い初めた。
「欲しい書物があるそうだが、どんな書物だい。」
 びくりとしたが、神妙そうに云ってやった。
「英語の本です。中世紀の風俗を調べたもので、素敵な※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵が沢山はいっています。ロンドンで出たんですが、絶版になってるから、注文してもないんですって。そ
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