、どいつもこいつも醜かった。通り過ぎる男共は、馬鹿げた顔をしていた。……だがそんな奴、俺は天下に一人も用はないんだ。
 痛む胸に彼女の眼付を秘めて、一心に想い耽って、当もなく歩き続けた。
 犬の仔が幾匹も面白そうにふざけていた。

 決心をきめて、眼を据えながら家に帰ってきた。母の出よう一つでは、こちらにも覚悟がある、と思っていた。
 ところが……口元に笑みを浮べて、やさしい眼付で迎えられた。
「気分はどうなんです。」
「何でもありません。」
 不機嫌にぶっきら棒に答えたつもりだったが……。
「どうしたんです。面白そうに……にこにこした顔をして……。」
 びっくりして、きょとんと首を傾げてみた。
「何か嬉しいことでもあるんですか。」
 張りつめていた気が弛んで、その拍子に、ふいに、飛び上りたいほど嬉しくなった。
「愉快なことがあるんですよ、お母さん。」
 とんとんと歩き廻ってやった。それが自分でも変で、ゆっくり考えなければいけないと思いながら、何にも考えられなかった。計画してたことだけがすらすらと口から出た。
「めっけ物をしたんです。素敵な書物があるんです、古本屋に。……二十円下さい、すぐに……。」
「二十円ですって……。」
「ええ、それは大変安くなってるんです。早く買わないと、他にも買手がついてるんです。是非いる本なんです。」
「そんなに急いだって……。」
「いえ、急ぐんです。……買いたいなあ。」
 堪らないような風をして、室の中をとんとんと歩き廻ってやった。
「そんなにほしいものなら、お父さんに話してあげましょう。」
「え、お父さんに……。」
 しまった……。父の存在をすっかり無視していたが、丁度父が家にいる日だった。……だが……まあいいや。
 やけ糞に落付いてきて、火鉢の側に屈み込んだ。ぼんやりして、淋しかった。
 そこへ、父がわざわざ書斎から出て来た。
 困った、困った……という気で縮こまっていると、父は仕事疲れらしい伸びをしてから、煙草を吸い初めた。
「欲しい書物があるそうだが、どんな書物だい。」
 びくりとしたが、神妙そうに云ってやった。
「英語の本です。中世紀の風俗を調べたもので、素敵な※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵が沢山はいっています。ロンドンで出たんですが、絶版になってるから、注文してもないんですって。それが古本屋に出てるんです。」
「うむ……。」
 父は煙草の煙と息とを一緒に含み込んだ。そして咽せ返りもしないで、悠暢に落付いていた。
「それは面白そうだね。……じゃあ買ってくるがいい。買ってきたらすぐに見せてごらん。」
「ええ。」
 母は立上って金を出してきてくれた。
 新らしい十円札二枚だった。受取ってから冷りとした。それをてれ隠しに、両手で紙幣を引張って、ぱんぱんとやって見た。いい音だった。
「何をしているんですよ。破けるじゃありませんか。」
「ははは。」と父は人の善い少し馬鹿げた笑い方をした。「実際紙幣の紙は玩具《おもちゃ》にでもしてみたいくらいいい紙だよ。いくら他で真似ようとしても、決して出来ないんだそうだ。」
 云いながら、少し禿げかかった額でのっそり立上った。そして近眼鏡の奥に眼を一つぎろりとさして、それから向うへ出て行った。
 何だか身が縮こまってきた。……父は感づいているのじゃないかしら。うっかりは出来ないぞ。いつまでもじっとして、黙りこくっていた。
「早く行ってきたらいいでしょう。……あ、そうそう、御飯を食べてからにしますか。」[#「しますか。」」は底本では「しますか。」]
「ええ。」

 洋食を食べてから余りたたない腹へ、無理に茶漬を一二杯つめこんだ。
 母も一緒に、干物《ひもの》の匂いを立てながら、つつましく食事をし初めた。牛乳だけを飲んだ父は、散歩代りに庭を歩いていた。
「こんど井上さんがいらしたら、昨日の御礼に御馳走をしてあげなければいけませんよ。」
 そんなことを云いかける母の側から、ぷいと箸を捨てて立ち上った。が、さて、変に身の置きどころがなかった。
 縁側に立ってると、庭の植込の影に父の姿が見えた。
「お父さん、外《そと》に何か用はありませんか。」
 一寸機嫌をとるつもりで云ったんだが、父は別に怒ってる風も……疑ってる風もなかった。
「上野はどうだい。……もう咲いたかな。」
 庭の隅から伸び拡がってる、低い桜の枝の下を、父は浅黒い顔で歩いていた。
「まだでしょう。」
「そうかな……。兎に角この……桜の咲きかける時分が一番眠いものだが、お前も休みだからって朝寝をしないで、しっかり勉強しなくちゃいけないよ。」
 だが……調子も穏かだし、こちらを向いてもいなかった。
 あまいものだ……。親馬鹿……子馬鹿……。
 ぴょんと飛びはねて、母のとこ
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