ろへ戻ってきた。母はまだ飯を食っていた。
「行ってきますよ。」
 云い捨てて表へ飛び出した。
 後顧の憂いなし。……書物は売れちゃったと云えばいい。
 明るく静かだった。何もかも晴れ晴れとしていた。けれど……不思議に気持がぼやけてしまった。何もはっきり浮んでこなかった。
 前日から、長い長い時間がたったようだった。
「嘘、嘘、初めてじゃない。」とあの女は云ったっけ。
 なるほど、初めてじゃない……かも知れない、と思うほどつまらなかった。
 くそ、面白くもない。
 二重眼瞼のちらちらした眼付が、何処を探しても見つからなかった。余り晴れ晴れとしていた。
 それでもやっぱり……事実は事実だ。
 往来の石ころを、下駄の先で蹴飛して歩いた。ころころとよく転った。
 そんなもんだ。そんなものだ、童貞なんて。大切でも何でもないただ円い玉、どこへ転ってゆこうと平気だ。溝《どぶ》の中へでも、青空へでも、勝手に転ってゆけ……。
 こつん……こつん……と、下駄の先に当る石ころの音が気持よかった。
 昨日俺を連れ出した井上のとこへ行って、どんなもんだい……とこっちから云ってやったら……。或は父と母との前に何もかもぶちまけて……。第一父母なんてものが可笑しかった。
 懐手の先で探ってみると、すべすべした紙幣がたしかにはいっていた。……大事に使わなくっちゃ。
 あなたが好きになったって……馬鹿にしてやがる。
 然し……どうしていいか分らなかった。余りに晴れ晴れとした暢《のびや》かさだった。どこかへ……まん円いものが転っていって見えなくなっていた。涙が出そうなほどすがすがしい胸心地だった。
 どうしたら……畜生……。しきりに石ころを蹴飛してやった。



底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「中央公論」
   1925(大正14)年4月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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