て、今日だけ服でゆくのは余り図々しいよ。」
 何が図々しいのか恒夫には分らなかった。然し茂夫は聞き入れなかった。
「それから、君の家の人には知らせないようにって、お母さんが云ったんだけど……。」
 極り悪そうに恒夫が呟くのを、茂夫は上から押っ被せた。
「そんなことは分ってるよ。」
 二人はそのまま学校を出た。茂夫が家に帰って着物に着変えてくる間、恒夫は遠くの方で待っていた。
「今晩遅くなるかも知れない、友達と活動を見に行くんだから、と云って来たよ。」
 茂夫は得意げにそう云ったが、すぐに、初めての日のように憂鬱な表情をした。恒夫の家に近づくに従って、その額から眼のあたりの曇りが益々濃くなっていった。恒夫も変に口が利けなかった。
 何だか憚られるような気がして、そっと家の中にはいると、二人はそのまますぐに、祖母の病室の方へ連れてゆかれた。
 次の室で、祖父と伯父とが碁を囲んでいた。それが何だか異様に感ぜられた。一寸まごついて立ってると、祖父は二人の様子をじろりと見やって、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]で奥の室を指し示した。別に怒ってるようでもなかったので、恒夫は少し安堵した。
 祖母は、布団を二枚重ねた上に更に羽布団を敷いて、上に毛布と羽布団とをかけて、如何にも軽そうに寝ていた。二人の看護婦と母とがついていた。
 恒夫と茂夫とがそっとはいって行って、入口の所に坐ると、誰も何とも云わないのに、閉じていた祖母の眼がぱっと開いた。硝子のような眼だった。それがじっと二人の方を見つめた。
 母が相図をしたので、二人は祖母の枕頭へにじり寄っていった。祖母は唇を動かしたが、声は少しも出ないで、その代りに眼から涙が流れてきた、その時、茂夫が不意に畳につっ伏して、大きな声で泣き出した。
 何もかもこんぐらかってしまった。看護婦の白い服があちこちへ動いた。
 茂夫は室の外へ連れ出された。祖父が一寸はいって来てまた出て行った。恒夫はいつのまにか祖母の手を握っていた。筋張ったその手が間を置いてはびくりと震えて、やがて静かになっていった。祖母は眼をつぶって、そのままうとうとと眠ってゆくらしかった。一人の看護婦が小首を傾げて、その様子を見守っていたが、恒夫の手から祖母の手を離さして、毛布の中へそっと差入れてやった。気がついてみると、母の姿が見えなかった。
 恒夫はじっと坐っていた。いつまでたっても何のことも起らなかった。あたりがしんとしてしまった。
 恒夫はやがて立上って、室から出て行った。次の室では、祖父が碁盤をわきに片付けて、伯父と何やら話していた。恒夫は一寸お辞儀をして通りぬけた。
 四畳半の勉強室の縁側に、母と茂夫とが坐っていた。恒夫はほっと大きく息をして近寄っていった。
「お祖母さんは……。」
「眠っていらしたようです。」
「また。」
 母は急いで祖母の方へ行った。そのぽかんと開いた眼と口とが、不思議な感じで恒夫の頭に残った。
 茂夫はまだ涙を一杯ためてる眼を、庭の地面に落したまま、黙って身動きもしなかった。
「お母さんが何か云ったの。」と恒夫は尋ねた。
「誰のことも悪く思っちゃいけないって……。」
「悪く思うって……だって君は誰のことも悪くなんか思ってやしないんだろう。」
 茂夫は首肯いた。
「それでいいんじゃないか。……お母さんは少し人がよすぎるんだよ。」
 日脚の西へ傾いてゆくのがはっきり見えるような、晴れ晴れとした静かな天気だった。すぐ向うに木瓜の真赤な花が、天鵞絨のように光っていた。
「僕が云った通りだろう、」と恒夫は暫くして云った。
 茂夫は涙の乾いた眼を瞬いた。
「何が……。」
「何がって……何もかもさ。」
 それきり二人は黙り込んで、日向にじっと蹲っていた。縁側がすっかり日蔭になってしまうと、恒夫は俄に空腹を覚えだした。
「腹が空いちゃった。」
「うん、僕も。」と茂夫が応じた。
 恒夫は女中から餡パンを貰ってきた。そして二人で頬張っていると、表に人の来た気配《けはい》がして、出迎る人達の足音がした。二人は急いで餡パンを隠した。然し誰も其処へはやって来なかった。二人は首をひょいと縮こめて、眼と眼でにっこり笑み合って、また餡パンを頬張り初めた。
 やって来たのは医者だった。医者は晩になるまで帰らなかった。家の中が何んだかざわざわして、それが重苦しい沈黙の中に浮出していた。そして六時半頃、恒夫と茂夫とが病室に呼ばれた時、祖母はもう意識を失っていた。痰のからまる急な呼吸に時々喘いで、その後はすーっと細長く息を引きながら、昏々と眠り続けていた。
 二人はまた病室から出て、庭へ降りていった。ぼーっとした明るみを含んでいる空に、星が一つ見え初めていた。なま温い空気の中に、新緑の香が漂っていた。
「お父さんが死んだのも、こんな晩だった
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