す笑い出してはよく叱りつけられた。茂夫は一生懸命になってよく覚えた。その指先が非常に綺麗で器用だった。
「お前には碁の才がある。碁打になっても立派な者になれそうだ。」と祖父は云った。
「僕は碁打になんかなりません。」と茂夫は不服そうに答え返した。
 すると祖父は上機嫌に笑いながら、自分の室へ帰っていった。
 けれど祖母の前に出ると、茂夫は妙に竦んでしまった。どうしたんだい、と恒夫に尋ねられても、彼は答えることが出来なかった。
 祖母はずっと寝たきりだった。そして恒夫から書物を読んで貰うのを楽しみにした。どんな書物でも構わなかった。書いてある事柄なんかどうでもよくて、ただ恒夫の声を聞くのが目的らしかった。
「僕が小さい時、」と恒夫は茂夫に云った、「御伽話やお化の話を沢山聞いたから、そのお返しなんだよ、屹度。」それから彼は声を低めた。「お父さんも死ぬ前に書物を読んで貰いたがったそうだから、お祖母さんももう長く生きないかも知れない。」
「大丈夫だよ、まだ元気じゃないか。」
 茂夫は打消すようにそう答えたが、祖母の所へ行くと、顔を伏せて固くなってしまった。恒夫に代って書物を読んでやる時には、変に声が震えた。
「ありがとう。もうそれくらいにしておきましょう。」と祖母は云って、じっと茂夫の様子を見守った。「またこんど来た時に先を読んで下さいね。」
「ええ。」と茂夫は低く答えた。
「恒夫にもあなたみたいな兄弟があったら、どんなにか心強いことでしょう。……いつまでも親しくしてやって下さいよ。」
 恒夫はひょいと顔を挙げた。
「じゃあ僕達は兄弟になっていいの。」
「え、あなた達が……。」
「お祖母さんがそう云えば、僕達はいつでも兄弟になって構わないんです。」
 云ってしまってから恒夫は自ら喫驚した。祖母は頭を細かく震わせて、これまで見たこともない大きな眼をして、二人の顔をじっと見比べていた。
 茂夫は今にも泣き出しそうな顔をして、不意に立上った。
「僕また来ます。」
 恒夫も我知らず立上った。そして茂夫の後について祖母の室を出ながら、半ば口の中で囁いた。
「大丈夫だよ。……お祖母さんは耄碌してるから、分りゃしないよ。」

 五月のはじめ、ひどい暴風雨が襲ってきた。真暗な低い空から、豆粒のような雹が降ってきて、それが止むと、雨と風とが次第に勢を増して、一晩中荒れ狂った。宵のうちに、電燈が二度も消えた。
 その時から、祖母の容態が俄に悪くなった。医者が日に何度も来たし、看護婦もやって来た。
 三日目の朝、恒夫はいつもの通り学校へ出かけようとすると、祖父の室へ呼びつけられた。祖父と母とが火鉢を挾んで坐っていた。火鉢の縁で長い煙管を、祖父がいつもより強い力ではたいているので、恒夫はただごとでないと感じた。そしておずおずと其処に坐ると、母はいきなり云い出した。
「恒夫さん、家へよく遊びに来る野田という人ね、あの人は小野田茂夫さんじゃありませんか。え……嘘を云わないで、はっきり御返事をなさい。」
 恒夫は次第に頭を低く垂れて、唇をかみしめた。
「どうなんです。茂夫さんでしょう。」
「ええ。」と恒夫は答えた。
 一寸沈黙が続いた。祖父がまた強く煙管をはたいた。
「それでは、もう何も云いませんから、今日学校が済んだら、すぐに茂夫さんを連れていらっしゃい。……よござんすか。」
「ええ。」
「すぐに連れてくるんだぞ。」と祖父が大きな声で怒鳴った。
 恒夫は喫驚して、何にも尋ねることが出来ないで、風に吹き飛ばされる木の葉のようにして出て行った。
 母が玄関まで送って来た。
「茂夫さん一人だけですよ。向うの家の人には何にも云ってはいけませんよ。」
 恒夫には合点がゆかなかった。どうして分ったんだろう……茂夫を連れて来てどうするんだろう……何で祖父があんなに怒ってるんだろう……祖母の病気がひどいのかしら、それと茂夫と何の関係があるんだろう……。そこまで考えてきた時、恒夫は急に晴れ晴れとした所へ出たような気がした。僕と茂夫とを表向き立派に兄弟にしてくれるのかも知れない……そして茂夫の、高い広い額と、憂わしげな上目がちの眼と、綺麗な器用な指先とが、まざまざと眼の前に浮んできた。
 恒夫は学校で待ってることが出来なかった。三時間目がすむと、こっそり逃げ出して豊山中学へ行った。そして例の小使室の横でだいぶ待たせられて、十二時になってから、茂夫に逢うことが出来た。
「大変なんだよ。」と恒夫は云った。「お祖父さんとお母さんとが、すぐに君を連れて来いと云うんだ。お祖母さんの病気がひどいんだ。」
 茂夫は一寸顔色を変えた。それから変に絶望的に落付いてしまったらしかった。いつもの通り家に帰って着物に着変えて来ようとした。
「服のままで大丈夫だよ。もう君だってことが分ってるから。」
「だっ
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