上衣の袖が擦り切れていたって、構うものか。僕なんか、擦り切れてるどころか、破けてると言ってもいい。それだって平気さ。ちっとも恥かしがることはない。」
「勿論、そうだよ。」隣席の者が応じた。
「恥かしがることはない。恥かしいと思うのは、インフェリオリティー・コンプレックスだ。もっとも、御婦人たちは、ここにいる御婦人たちは、着物の袖口が擦り切れてなんかいない。然し、吾々男子は、擦り切れた服で堂々とのし歩いても、一向に構わんじゃないか。」
初めは、なんのことか、あたりの者も解しかねたが、やがて、不穏な空気がふっと漂ってきた。
川村が先刻、挨拶の中で、上衣の袖口のことを洩らしたのである。アメリカ旅行中、赤毛布式な失敗はあまりしなかったが、或る招待の宴席に臨んだ時、自分の上衣の袖口がだいぶ擦り切れて見っともなくなってるのに気付き、それからはへんに、内心恥かしい思いをした、というのである。川村は富有な実業家で、いつも、その晩も、きりっとした身なりをしていたし、アメリカ旅行中に果して、袖口の擦り切れた上衣を着ていたかどうかは、疑問だった。それになお、彼の話の調子では、上衣の袖口のことは一種の比喩
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