でからめておいて食いつきはするが、やがてそのまま下に落してしまう。私は幾度も、蛾や甲虫などを生捕って投ってやった。青空の下にすかし見る蜘蛛の姿の、足が長く伸び腹が円くふくれて、背と腹の金筋が美しく輝き出すのが、私の喜びであった。
けれども、蜘蛛は余り幸福でなさそうだった。風のために巣の破けることが多かった。餌も不足がちのように見えた。早朝仄暗い頃、蚊の類の小さな羽虫が沢山引っかかってる破れ巣の横糸を食ってしまい、新らしい完全な巣を張ってしまうのを見定めて、私はそれに投げ与えるべき大きな昆虫を、どんなにか探し廻ったことだろう。そのために幾日か、太陽と共に起き上ったものである。
そして凡そ十日ほど過ぎた或る日の午後、私は一つの蜘蛛の巣に珍らしい光景を見出した。巣の中心から少し下の方に、蜘蛛がじっと動かないでいる。その一本の足に、羽の黒い足の長い赤蜂が、喘ぎながら一生懸命に喰いついている。蜘蛛は後ろ向きになったまま動かない。蜂は全身の力を口に籠めて、足先で蜘蛛の巣を払い落そうとしている。蜘蛛の足が喰い切られるか、蜂の足が巣の糸に絡まってしまうか、恐らく必死の努力であろう。
私は一人気を揉んだ。勿論蜘蛛に味方してである。然し迂濶に手出しは出来ない。やがて、蜂がぱっと飛んで逃げようとした。とたんに、蜘蛛はくるりと向き直るが早いか、くり出す白糸で蜂を絡めた。次にはもう、蜘蛛の足先でくるくる廻転されてる真白なものに過ぎなくなった。凡てが一瞬間のうちの出来事だった。私は蜘蛛の勝利を祝した。
私はそれですっかり安心してしまった。赤蜂は庭にいる虫類のうちの最も獰猛なものである。それに打勝つとすれば、蜘蛛にとっては万々歳である。
ところが、それから二三日後の午頃、一つの巣の蜘蛛が見えない。そして巣の真中から、一筋の糸が長く垂れている。私は驚いて庭へ下りていった。巣から垂れた糸は、低い躑躅の茂みにはいり、更に地面へ達していて、そこに、女郎蜘蛛がぐったり腹這っている。そして驚くべきことには、躑躅の茂みの周囲に、一匹の赤蜂が飛び廻っていて、夢中に何かを深し求めてるかのように、私が側へ行っても逃げようとしない。私はかっとなって、女中を呼んで蝿叩きを取寄せ、蜂を叩き潰してやった。それから、静に蜘蛛を掌に取上げた。
蜘蛛はぐたりとなったまま、生きてるのか死んでるのか分らなかった。傷はどこにも見えず、姿勢もくずれてはいないが、動く模様が更にない。私はそれを室の隅に上から笊を被せておいた。そして二三日たっても、蜘蛛はそのままで生き返らなかった。そのまるで生きた通りの蜘蛛の死体を、私は庭の隅に埋めた。
それから赤蜂の害が屡々起った。私は赤蜂の姿を見かけると、蝿叩きで叩き潰してやった。が赤蜂は次から次へとやって来た。三四匹一緒に飛んでることもあった。女郎蜘蛛の姿が巣に見えないなと思うと、それは大抵一筋の糸で巣から地面に落ちて、死体となってしまっていた。背と腹との間のくびれた急所に、蜂から喰いつかれたらしい傷跡が見えるのもあった。
そして、玉川から来た私の庭の女郎蜘蛛は皆、赤蜂のために害せられてしまった。残ってるのはただ、昼間隠れていて夕方から巣に出てくる泥坊蜘蛛ばかりである。
女郎蜘蛛のあの美しい色彩は、太陽の光の中で赤蜂の好目標となるのかも知れない。恐らく赤蜂は背後から狙い寄って、背と腹との間の急所に喰いつくのであろう。然し、その死体を別に食うのでもないらしいところを見ると、何故の襲撃か訳が分らない。それについては、何れ学者の示教を乞いたいと思っている。が兎に角、赤蜂が跋扈して女郎蜘蛛が滅びるということは、淋しいことである。
田舎に旅をして、静寂な自然と素朴な人事とに接する喜びの大半は、都会人としてそれらに接するところにあるということが、一面の真理であるとするならば、都会に住んで庭に蜘蛛の巣を張らして楽しむのは、野人としての楽しみであるというのも、一面の真理かも知れない。然しながら、蜘蛛を嫌う者は性格的に弱者であり、蜘蛛を好む者は性格的に強者であると、そういうことが云われないものだろうか。偏奇な趣味の対象としては、蜘蛛は余りに多くのものを持っていると、蜘蛛好きな私は勝手な考え方をしたいのである。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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