蜘蛛
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)概《おもむき》
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 蜘蛛は面白い動物である。近代人的な過敏な神経と、偉人的な野性と、自然的な神秘さとを具えている。
 近代人の神経は、何かしら不健康で不気味である。本物の動物的なものから根こぎにされたような趣きがある。運動的知覚がひどく鈍く、感情的知覚がひどく鋭い。この運動の方面の知覚と感情の方面の知覚とが、不均衡になればなるほど、益々病的に不気味になってゆく。――蜘蛛を見てもそういう感じがする。始終巣の真中にじっとして餌物を待ちすましてるところは、苛ら苛らしながら日向ぼっこをしてる近代人の俤がある。そして巣の僅かな微動にも緊張した神経が震えおののく様は、単なる触知でなしに、感情的知覚の域にまでふみこんでる概《おもむき》がある。あのものぐさと敏感さとには、何かしら病的な不気味なものがある。
 偉人は凡て野性を有するというのは、否、野性を有していなければ偉大な仕事は出来ないというのは、私の持論である。都会人的な巧妙さと精緻さとでは、大きな仕事は成されない。野性と云うのに語弊があるならば、大地の中に根を張ってつっ立ってる力とでも云うような、何かしら人為的でない後天的でない本質的な力である。トルストイやバルザックやセークスピアの偉大さは、そういう力に依ってるところが多い。トルストイが如何に無抵抗の宗教を説こうと、彼の力は畢竟肉食的な野蛮な力の上に立っている。――蜘蛛にはそういった野性がある。彼が如何に精巧な巣を張ろうと、如何に過敏な神経を持っていようと、それは到底文明的な所産ではない。文明的な所産となりきれないほど、彼のうちには肉食的な野性がある。細い糸に懸って空に浮んでいても、地を這う虫けらよりも、遙に大地的であり遙に野性的である。
 昔の人は、自然に対して一種の神秘的な恐怖を懐いた。そこから、自然力崇拝の宗教まで生れた。然るに、人間の数が増し文明が進むにつれて、そういう宗教は、そういう神秘的恐怖は、遠く山間僻地へ追いやられて、跡を絶とうとしている。けれども文明のさなかにも、都会の真中にも、ふとその痕跡が見出されることがある。――蜘蛛はその一つである。薄暗い土蔵の二階、物置の片隅、階段の裏などに、大きな蜘蛛の巣が張られていて、その真中にあの不気味な怪物が控えている時、人の心には知らず識らず、一種の神秘な恐れが湧いてくる。妖怪屋敷や廃墟壊屋に、いつも蜘蛛の巣がつきものとなっているのは、自然そのままの現象ではあるが、また人の心の自らなる連想作用でもある。
 蜘蛛のうちでも最も傑出しているのは、女郎蜘蛛である。多くの蜘蛛はどす黒い汚い色をしているのに、彼だけは、背と腹部とに幾筋もの金線をめぐらして、誇らかに光り輝いている。多くの蜘蛛は昼間隠れて夜分姿を現わすのに、彼だけは、白昼も傲然と巣の真中に逆様に控えている。体躯も比較的大きく、最も精悍である。
 その女郎蜘蛛が、東京の市内には見当らない。私は未だ嘗て市内でその姿を見たことがない。他の蜘蛛は、それぞれの種類を市内で見かけるが、女郎蜘蛛だけはどこにもいない。けれども、東京の周囲、大森、玉川、赤羽、市川などには、女郎蜘蛛が沢山いる。
 昨年の初秋、私は玉川に行ったついでに、大きな女郎蜘蛛を五六匹捕えてきた。ミルクの空缶に草の葉を軽くつめ、その間々に蜘蛛を入れ、四方に錐で空気ぬきの穴を拵えて、紐で下げて来たのだが、蜘蛛は別に弱った風も見えなかった。庭の木に放すと、のそりのそり梢の方へ這い上っていって、枝葉の茂みに隠れてしまった。
 その晩私は楽しく眠れた。「土蜘蛛」や「滝夜叉姫」などの物語を空想することは、吾々の生活を豊かにしてくれる。
 そして翌朝、いつもより早く起き上ってみると、何という愉快さだったろう。庭の木々の梢に、あちらこちらに、美事な大きな巣が張られていて、その真中に女郎蜘蛛が一匹ずつ、逆さにじっと構えこんで、背と腹の金筋を朝日に輝かしているのである。私は嬉しさの余り、妻や子供達を呼んだ。子供達は初めて見る女郎蜘蛛の不思議さと美しさに眼を見張った。美や神秘に対する子供の敏感さよ。だが、田舎の子供達は、女郎蜘蛛の巣で蝉取りの道具を拵えて遊ぶのである。
 それから私は毎日、女郎蜘蛛を眺めて暮した。少しでも変な気配があれば、蜘蛛は巣を揺ぶって警戒する。蝿や蛾が巣にかかれば、一瞬の猶予もなく、飛びついて、くるくると白糸でからめて、巣の中央に持ち返り、暫く様子を窺ってから口をつける。生血を充分に吸う時その腹は大きくなり、食物の不足な時には心持ち小さくしぼんで見える。カステーラの屑を放ってやると、白糸
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