動いてきた。常に分を守って、程好いところで満足しているのだ。そういう私のどこに、不正や犯罪の匂いがあり、或はその萠芽があるのか。
そういうことを、私は静かにそして謙虚に説いていった。ところが、全く思いがけないことが起った。言葉が途切れて、煙草をふかし、ウイスキーを飲んでいると、京子はふいに、大きな声を出した。
「いいえ、あなたは冷酷な人です。」
冷酷とか熱烈とかは問題になっていなかった時のことだ。彼女は何を考えていたのであろうか。いいえと何を断定したのであろうか。私は思考の手掛りを失ってぼんやりしていると、彼女の眼は妙にぎらぎら光って私を見据えた。
「あなたは、わたしが姙娠することを、避けていらっしゃるでしょう。」
それもまた唐突なのだ。もっとも、私にはまだ結婚の意志はなく、彼女もそうらしいし、随って、彼女に姙娠されたら困ると思って、それを避けてきた。私の程好い行動の一つなのである。然しそのことが、私の借金とか仮定の犯罪とかに、何の関係があるのだろうか。彼女のぎらぎら光る眼は、霧がかけるように曇ってきて、こんどは泣き出した。
「あなたは、わたしをほんとに愛してはいらっしゃいません。もうお別れしましょう。」
私が黙っていると、彼女は泣きながら言った。
「あなたは仮面をかぶっていらした。その仮面を脱いで下さい。」
私はなにかぎくりとしたが、なぜだか自分にも分らないのだ。実のところ、私は仮面などつけるほど悪辣ではなく、むしろ素直で謙虚ではないか。
「僕は仮面をかぶってやしないし、その必要を感じたこともない。いつも、ありのままの素顔で押し通してるつもりだ。」
ふしぎに、いや当然かも知れないが、私の心は冷たくなっていった。そして彼女をヒステリックだとさえ感じた。彼女の頬は蒼ざめて澄んでいる。それを見ながら私は、彼女の日常の顔の変化、皮膚が美しく冴えたり醜くくすんだりする変化を、ふと思い浮べて、それは単に生理的変化にすぎないものだろうと妙なことを考えた。
「僕の顔はいつも素顔だよ。ただ、生理的変化がないだけだ。」
彼女はきっと顔を挙げた。その眼に敵意めいたものが閃めき、頬の肉が痙攣的に震えた。彼女は自分のコップにもウイスキーをつぎ、残りを私のコップにすっかり空けてしまった。
「お酒には勝手に酔って、そして女に向ってはいつも、生理的変化、生理的変化って……。」
「いや、そんな気持ちで言ったんじゃないよ。」
「よく分りました。仮面には生理的変化はございません。」
私は口を噤んだ。いきなり抱きついたり接吻したりすれば、私の粗忽な言葉も冗談になってしまうかも知れなかったが、彼女から私を押し距てるものが何かあった。それは、程好きを守るという私の主義だったであろうか。
私はウイスキーに程好く酔ったが、彼女とはもう融和の出来ない気持ちで、その室を出た。封筒に入れた一万円の紙幣を、黙って彼女の机の上に置いてきた。そのようなものを前以て用意していたことを、その時はっきり意識して、頭は熱くなり心は冷え冷えとした。
京子は会社をやめた。他に転勤したものらしい。私へは改まった挨拶もなく、私の方からも手を差延べようとはしなかった。然し、彼女のことは妙に心の隅に残った。それが当然のことかも知れないが、どこかに曇りが出来たような感じだ。そして私は、自然的にもまた故意にも 会社では[#「故意にも 会社では」はママ]すべてに冷淡な態度を取った。口はあまり利かず、笑うことは少く、事務はのろのろとやり、誰にも迎向せず、誰にも逆らわなかった。京子の退職と関連して、私に向けられる視線はなお執拗になったが、私はそれをも無視した。
ところが、或る日、事務の処理にちょっと手間取り、而もその日のうちに片附けておきたかったので、一時間ばかり居残って仕事をした。
そこへ、西山さんが茶を持って来てくれた。
「御勉強ですな。」
善良そうな笑顔をしている。彼はしばしば居残って仕事をするほどの勤勉家である。もう五十歳を越した小柄な男で、いつもにこにこしていて、何の屈託もなさそうで、どの点から見ても善良そのものの感じだ。私が仕事を終えたのを見届けて、茶を持ってきてくれたものらしい。
西山さんは私のそばに腰を下して、私と同じく茶を飲み煙草をふかした。
「お淋しいでしょう。」と彼はぽつりと言った。
私が何のことか分らずにぼんやりしてると、京子さんが会社をやめたんで……と事もなげに言ってのけるのである。それから一つ二つ世間話をして、彼はまた事もなげに尋ねた。
「あなたはだいぶ借金があるとのことですが、いったい、全部でいかほどになりますかな。」
全く世間話の調子なのである。会社の多くの者が問題にしてる私の借金のことも、善良な西山さんには全くの日常茶飯事らしい。私は曖昧な返事で
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