はどうにもならなくなるよ。僕はそれを心配してるんだ。行き詰まりの日が必ず来る。その時は、どうするんだい。」
「自殺か犯罪か、と君は考えるだろうが、大丈夫、心配はいらんよ。」
 中尾はぎょっとしたように私の眼を見つめた。自殺か犯罪か、それを彼は想像したに違いないし、他にも同様な者がいるらしい。然し私のような程よい人間に、そんな大それたことが出来るものか。中尾は突然話をかえた。
「立ち入ったことを言うようだが、あの三上京子ね。彼女に、君は貢いでるか搾られてるかして、だいぶ金を使ってるという噂もある。これは注意しなけりゃいかんね。」
 私のことが問題になったのはそんなところからだろうと、私は直ちに感じた。これは全くまずい。私は嘘を言った。彼女に金を借りたことがあるので、御礼心に洋服地を贈っただけで、他意はないし、第一、女に対する礼は厚くしなければならない、などと言いながら、私は少し冷汗をかいた。中尾は信じかねるように、そして不満そうに、焼酎をあおった。
「いろいろ噂にも上ってることだし、用心しなくちゃいかんよ。」
 そのようなことで、結局あやふやに終った。私の方では、借金の整理方法もつきかけてるから安心してくれと、中尾の手を握りしめてやった。実のところ、もう大して借金を繰り返さなくともよいところまで、黒川の手にある私の資金は太っていたのである。

 会社に於ては、私の周囲に微妙な雰囲気が漂っていた。ひそひそとした噂話、好奇の眼、不安そうな眼、冷淡な素振り、わざとらしい同情的態度など、さまざまなものが私を中心にして埃のように舞い立ってる感じだ。そしてただ雑然としていてまとまりがなかった。それを打診するようなつもりで、私は同僚の一人に借金を申し込んだところ、容易く一万円貸してくれた。意外だった。私はなにか反撥的な気持で、期限のきた他の借金を返す時、その男の机に、謝礼の煙草包みをわざと人目につくほど公然と置いた。それを彼はこそこそと鞄にしまった。ざまあ見ろという思いで胸がすっとした。
 そういう雰囲気を背景にして、京子が私に突っかかってきた。彼女は私を避けてる風だったし、私の方でも遠慮して遠のいていたが、突然、アパートに来てくれと言う。その約束の日曜の午後、私は肚を据えて出かけた。何か重大な相談があるらしく感ぜられるし、すべて彼女の意向に従う覚悟をしたのである。
 彼女は珍らしく和服を着ていて、よそよそしい丁寧な態度で私を迎えた。私がいつも飲むことになっている通りに、紅茶とウイスキーとを出した。チーズと果物が添えてあった。気重い沈黙が続いた後に、彼女は言い出した。
「あなたはわたしに隠していらっしゃることがおありでしょう。それを、すっかり聞かして下さいませんか。」
「いったいどんなことなの。」と私はそら恍けた。
 彼女は私の顔をじっと見た。
「会社のいろんな人から、お金を借りていらっしゃるでしょう。」
「ええ、借りてるよ。」
 私は無雑作に頷いてみせた。
「それを、なぜ隠していらしたの。」
 ばかげた問いである。人に金を借りてることなど、隠すも隠さないもない、どうでもいいことなのだ。わざわざ吹聴するほどのことでもないのだ。ところが、そうでないと彼女は言うのである。彼女のことで金がかかって困るのだったら、別れてもよろしいと、そんなことまで言い出す。どうも話の筋が通らない。
「君こそ、何か隠してるんだろう。」
 突っこんでみると、彼女は打ち明けた。主任の戸田に呼ばれて、さんざん注意されたとのことだ。その戸田の説によると、私は数十人の者から莫大な借金をしていて、いつ破綻を来すか分らない状態にある。破綻を来して、どんな不正なことを働くか分らないし、どんな犯罪を行うか分らない。そういう男との交際は用心しなければいけない。殊に、そういう男から何等かの世話を受けてるとすると、これは一身の破滅になる。既にいろんな噂が飛んでいる。噂はまあ噂として、今後のことに気をつけ、立ち直る覚悟が肝要である。とにかく、私のような男には充分警戒を要する……。
 それを聞いても、私は別に驚きはしなかった。ただ、余計なお説戒だと思った。私が不正や犯罪を働き得るほどの者でないことは、私自身がよく知っている。会社の中には現に、いろいろな不正が行われている。関係方面に為されてる贈賄や収賄、物資の横流し、不正な取引などが、或は会社の名に於て、或は個人の名に於て、ずいぶん行われている。殆んど公然と話題になってるものさえある。それらのこと、そしてそれらの人々は、いったいどうなんだ。私の方は何も悪いことはしていない。金は借りても期日には返すし、些少ながら謝礼もしている。京子とのことだって、無理に言い寄ったわけではなく、謂わば自然の同感合意に依ることである。それらすべてに於て、私はつつましく
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング