にも出ず、話はすぐ先方から変えられて、近頃の無沙汰だとか健康のことだとか、普通の挨拶に終ってしまった。李から呼び出されて正枝に挨拶させられた、それだけの恰好だった。私は電話口から離れながら苦笑を洩した。
かくして、別所は春日荘の一室に納まり、校正係という一定の職業を持ち、沢子との恋愛も得て、まあ幸福な生活にはいりかけてると思えるのだった。
ところで、これは後で私が椿正枝から聞いた話だが、別所はつまらないことを気に病んでいた。春日荘の東側にちょっとした空地があり、そこに、建物から二メートルばかり離れて椿の木が立ち並び、その謂わば青葉垣の外の狭い地面に、正枝は花卉や野菜などを慰みに栽培していた。その地面の先は低い崖で、ずっと低地になっていた。そちら側の二階に別所の室はあったので、さまで高くない椿の立木ごしに、低地の屋根並が見渡せた。それらの屋根の一つの下に、斜めに見える室があって、雨戸があるのかないのか、とにかく板戸を閉められたことがなく、いつも硝子戸のままになっていて、而も夜通し電灯が明るくともっていると、別所は云うのである。
すべて節約の時代だから、もう夜の十二時すぎになると、屋
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