いうものがないんです。精神を打ち込める職場というものがないんです。文学といったような空漠たるものでなく、もっと直接当面の職場です。それがどこにも発見出来ない悲しさです。この悲しさはなんだか、普通のものと質のちがったもので、ともすると、深い憂鬱か烈しい強暴かに変りそうな危険があります。そのことを、この鉄の鎖のぶらんこの上で考えていましたが、なんだかいい気持になってきました。」
「いい気持に……。」と私は繰返した。
「いい気持です。考えつめて、もう考えまいというところまで来ると、いい気持です。」
 私はそれにはっきり同感が出来ず、然し何か心を打たれて、我知らず立上った、そして夜気を吸いながら煙草に火をつけると、別所も同じく煙草を吸いだした。
「まあゆっくり話そうよ。僕の家に来るんだろう。」
「もういいんです。ここでお逢いしましたから、また伺います。もう何時でしょう。」
 用件以外の時には私はいつも時計を身につけていなかった。感じからすればもう一時頃になっていたろうか。
 そして私は別所と別れたのであるが、酔っていたからよく覚えていないけれど、大体右のような会話だったと思うし、最後の彼の言葉
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