にも出ず、話はすぐ先方から変えられて、近頃の無沙汰だとか健康のことだとか、普通の挨拶に終ってしまった。李から呼び出されて正枝に挨拶させられた、それだけの恰好だった。私は電話口から離れながら苦笑を洩した。
 かくして、別所は春日荘の一室に納まり、校正係という一定の職業を持ち、沢子との恋愛も得て、まあ幸福な生活にはいりかけてると思えるのだった。
 ところで、これは後で私が椿正枝から聞いた話だが、別所はつまらないことを気に病んでいた。春日荘の東側にちょっとした空地があり、そこに、建物から二メートルばかり離れて椿の木が立ち並び、その謂わば青葉垣の外の狭い地面に、正枝は花卉や野菜などを慰みに栽培していた。その地面の先は低い崖で、ずっと低地になっていた。そちら側の二階に別所の室はあったので、さまで高くない椿の立木ごしに、低地の屋根並が見渡せた。それらの屋根の一つの下に、斜めに見える室があって、雨戸があるのかないのか、とにかく板戸を閉められたことがなく、いつも硝子戸のままになっていて、而も夜通し電灯が明るくともっていると、別所は云うのである。
 すべて節約の時代だから、もう夜の十二時すぎになると、屋根並は一面の闇に沈んでしまい、ただ遠くにぽつりと二つ三つ、何かの柱頭の裸灯が見えるきりだった。その闇の中にただ一つ、凡そ十軒ばかり先方の屋根の下に、明るい室が宙に浮いたように見えるのである。その灯火は朝まで消されることがない。而も、人影一つささず、明るいまま静まり返っている。その室には一体、誰か人が住んでるのであろうか。住んでるとすれば、夜通し何をしてるのであろうか。――別所はそれを気に病んでいた。
 李がそれを知って、また独特なことをやってのけた。李の室は他の側にあったが、別所の室から問題の家を見定め、その辺の町筋を探査して、そして或る夜更け、その家の前で、「二階の灯火を消して下さい、夜通しつけ放しにしないで下さい、」と叫んで、駆け戻って来た。それを三晩も繰返したというのである。そのためかどうだか分らないが、灯火は早くから消されるか、或は雨戸が閉められるかして、とにかく、夜通し明るい室は見えなくなった。そのことを自慢にして、正枝をわざわざ別所の室に引ぱって来て、闇に没してる屋根並を眺めさせながら、あの辺だったと説明してみせた。
 この話、如何にも李がやりそうなことだと微笑まれるのだっ
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