に残りました。
 大体そんなところですが、別所君はつまり、人との応対に卑屈なほど従順であり、また遅刻をきらって平気で欠勤するほど純真であり、そして無数の不平不満を胸中に秘めてる男だったと、こうちぐはぐな浅薄な印象きりで、私にははっきりしたところは分りませんね。」
 右のような話は、それでも、それが背景となって、別所の姿を浮出させるのに役立った。
 私のところにも、他の背景があった。
 別所が李永泰に連れられて初めて私の宅に来た時、彼は殆んど口を利かずに、李と私との雑談を笑顔で聴いていた。しんは強そうだが、然し痩せた腺病質な体躯、血色のわるい細面の顔、しなやかな長髪、静かに澄んだ目差、それとなんだかそぐわない長い感じのする歯並、そうした面影が私の目に留った。それから一二度逢ってるうちに、彼も次第に口を利くようになったが、それでも、過敏な感性といったようなものが言葉を抑制するのが、私の目についた。自分の言葉がすぐ自分に反映してくるらしく、その蒼白い顔を度々赤らめるのだった。そのためにはまた却って彼の言葉を心からの真実なものと感じさせもした。これと並べると、李の言葉は平然とした明確なものだけに、却って嘘か本当か分らなくなる恐れがあった。少くとも、別所と共には笑い難く、李と共に笑い易かった。
 別所がやってる校正の仕事について、或る時、議論が二つに別れた。別所が校正枝術が下手でよく叱られるというような雑談から進んで、別所に云わすれば、内容の下らないもの即ち下らない文章では、初めから軽蔑した気分になって校正もうまくゆかないというのである。然し李に云わすれば、下らない軽蔑すべき文章ほど校正はうまくゆく筈だというのである。なぜなら、文字の上だけなら誤植のまま読み通せる場合がある以上、どうせ文章は読み取ってゆかねばならぬものだから、下らない文章ほどその場合の心の繋がりが稀薄になり、随って字面を辿る機械的な働きが高度化する。とそういう議論から、李が主張することは、凡て社会機能の機械的な働きの一つになり終ることが、これからのインテリ層に要求されることで、心とか精神とかいう古くさいものの薄れゆく影に執着するのは、水に沈む石ころにしがみついてるようなもので、やがて溺れ死ぬ運命を免れない。但し、ここにいう機械的な働きに身を置くことは、謂わば私情をすてて公の境地に腰を据えることだと、そんなとこ
前へ 次へ
全12ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング