たのは、机の上方の壁にかけてある写真だった。紋服をつけた女の半身で……よく見ると、それは、幾年か前の彼の母親の姿なのである。それから畳の上に眼を転ずると、母親に似たものから、順次にちがったものへとなってゆく……。額がさみしく、頬のあたりに弱々しい神経的なものが漂い、鼻が目立たず、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]が温和な円みをもっているもの。それから次第に、頭がある重みをもち、鼻が目立ち、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]が尖ってくる。そして更に、額がつまり、鼻が頑丈になり、頬がふくれ、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]が短くなる……。それは美の標準によるのではなくて、何か特別な順序にちがいない。そして最後の……彼が最も嫌いだといってるその一つは、最初のを母親として、いったい誰なのであろう。良一はそっと茂樹の顔をうかがった。その顔は、全体の中程にでもあったろうか……。
 茂樹は腕組みをして、室の隅を見つめていた。その眼には何にも映ってはいなかった。頭の奥で、何か一心に考えつめているか、或はただ茫然としているか、どちらかの様子だった。
 隣りの室でも、母親は何をしてるのか、ことりとの物音もしなかった。写真の顔の列が浮上ってきて、良一は不気味な気持で、眼をそらした。
 表の格子戸が、ばかに大きな音をたてて開かれた時、良一はほっと息をついた。その瞬間、茂樹は夢からさめたようにあたりを見廻し、おびえた様子で、手早く、写真を片付け初めた。不意に盗人にでも襲われたような慌てかたで、眼付が荒々しく、手がおののいていた。
 玄関で、母親が誰かに応対していたが、やがて、茂樹を呼ぶ声がした。茂樹は返事もせず、写真を箱にしまってから、その箱をまた戸棚にしまい、そして出ていった。
 良一はひとり取残されてぼんやりしていた。暫くたつと、茂樹がとびこんできて、彼の耳に囁いた。
「川村さんが来ています。ひょっとすると、くるかも知れません。すぐに出かけましょう。」
 さも秘密らしく囁いて、じっと良一の顔をのぞきこんでくるのだった。
「母にはないしょにしといて下さい。心配するといけないから。」
 良一は彼の顔を見返したが、何にもよみとることが出来なかった。ともかく、立上って、すぐ玄関に出てみたが、そこには誰もいなかった。
 引返してくると、母親は丁寧に挨拶をした。
「もうお帰りでございますか、何にもおかまいも致しませんで……。あの……先生にお逢いの時には、どうぞよろしく申上げて下さいませ。私へまで、こんな御馳走をいただきまして……。」
 そこには、何か料理らしい折詰のものが置いてあった。
「じゃあ、そこまで送ってきます。ちょっとお茶をのんでくるから、少しかかりますよ。」
 茂樹は母親へそう云って、もう先に立って玄関へ出ていた。
 良一は後につづいた。二三間行くと、茂樹は彼の耳に囁いた。
「川村さんのためには、僕は生命をなげだしてもいいんです。安心していて下さい。」
 良一には何のことやら分らなかった。茂樹の足はばかに早かった。なかば小走りについていきながら、良一はもう考えるのをやめた。伯父のところへ行くと、川村さんは狂人だと言われるし、川村さんのところを訪ねると、本当に気が少し変らしい青年に逢うし、それから不思議な写真のこと……。そして川村さんは、一昨日まで九度五分の熱でねていたのに、いったいどこへ来ているのか。そしてどういう事が起りかかっているのか……。良一は大体の輪郭だけに迷いこんで、成行に従おうと心をきめた。夜もだいぶ更けたらしい、まばらな通行人の姿が肩をすくめていた。白く引いて流れる息をマントの襟につつんで、彼は茂樹に後れまいと足を早めた。

     四

 街角《まちかど》を二三度まがって、電車通りにつうずる横町の、構えは小さいが、小綺麗な料理屋の前で、茂樹は立止った。そして内部を窺いながら躊躇していたが、良一の方へ振向いて囁いた。
「ここです。川村さんをたずねてみて下さい。」
「ええ……だが、あなたの名前は……。」
「僕の名前ですって?」
 茂樹はじっと良一の顔を見つめた。川村さんの家の前で逢った時と同じような鋭い不気味な光が、眼の中にあった。
「分ってるじゃありませんか。竹山茂樹です。」
 良一は中にはいっていって、下足番に、川村さんのことを尋ねた。出て来た女中に、自分たちの名前を通じてもらった。上ってこいとの返事だった。
 良一は竹山茂樹をうながして、座敷に通った。
 川村さんは酔ってるようだった。二人の顔を見て、頓狂な眼付をした。
「ほう、これは珍らしい。君たちは知り合いなのかい。いつのまに懇意になったんだい。俺にないしょでくっついちゃいかんぞ。」
 良一は少々当が外れた気持だった。竹山の言葉によって何か変事を予想さ
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