ていなかったが、時々話をしたり、一寸した質問に応じてやったりしてるうちに、ひどく親しい気持になっていった。
 そして、一年ばかりすると、彼は前から余り快活な方ではなかったが、急に目立って、顔色が悪くなり、神経質になり、憂欝になってきた。身体を大事にするように、度々注意してやった。彼はどこも悪くないと答えて、淋しい微笑を浮べるのだった。そして休むことが多くなった。
 或る日、僕は彼の様子を見てびっくりした。丁度一時間ひまがあって、教授室で書物をよんでいたのだが、その間、彼は自分の卓子に両手をくんでよりかかって、じっと眼を宙に据えている。顔は総毛だって、さわったら石のように冷たそうだ。いつまでも同じ姿勢で動かない。その、宙に据って何にも見えない眼には、不気味な光がただよっている……。
 僕はたまらなくなって、どうかしたのかと尋ねた。彼はけげんそうに顔を見上げたが、ふいに、にっこり笑った。そして、もう何もかも駄目だと云う。その笑いかたと言葉とがまるでちぐはぐで、調和がとれないんだ。心配なことがあるなら、うちあけて話してみないかと、僕はやさしく云ってやった。彼は暫く考えていてから、急につっ立って、聞いて下さいますかと、烈しい語調なんだ。
 その夕方、約束どおり落合って、僕は彼を鳥屋に案内して、夕食をおごってやりながら、話をきいた。話の調子が少し変で辻褄の合わないところもあったが、大体次のようなことだった。
 十年ほど前まで、彼の家は相当に裕福で、父親は或る百貨店の係長の地位を占めていたが、ふとしたことから、赤坂の芸妓に深くなって、めちゃくちゃな生活に陥ってしまった。そしてせっぱつまった揚句、その女と大阪に逃げだして、一年ばかりどうにか暮していたらしい。それから、よく分らないが、その女がまた芸妓に出たとか、或はどこかに勤めに出たとか、まあ堅気な暮しはしていなかったらしいが、情夫をこさえて、彼を顧みなくなった。彼はかっとなって、女を殺そうとして、仕損じて、つかまった。
 そうした父親の行跡が、彼と彼の母親の生活に、どういう影響を与えたか、君にも大凡想像出来るだろう。負債と屈辱……、肩身せまく世間を渡りながら、彼は中学二年までは修了したが、もう後は学業も続けられなくなった。夜逃げ同様にして何度も移転した。それでも、母親と彼とは一緒に住み続けた。別々の暮しが出来なかったのだ。そうし
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