うわさは確かなこととなって、ますますひろまるばかりでした。そしてお詣りに来る人も、ますます多くなりました。
顔長の長彦は、腕をくんで考えこみました。木でできている観音様の像が、七日のあいだ、あちこちまわり歩かれたということは、どうもほんとうとは思われませんでした。これはきっと、悪者どもが、なにかたくらんで、観音様を七日のあいだ盗み出し、足に泥をぬってもとにもどし、そしてふしぎなうわさをいいふらしたにちがいありません。
「用心しなければいけないよ」と長彦はいいました。
「悪者がいるとすれば、私がひとつとらえてみせます」と丸彦は答えました。
けれども、その悪者はなかなかわかりませんでしたし、お詣りに来る人はふえるばかりでした。
ありがたい観音様《かんのんさま》だ、生きた観音様だ、といってお詣《まい》りに来る人たちは、それぞれおさいせんをあげていきました。いくらことわっても、なげ出していきました。
そのおさいせんが、だんだんたまってきました。大きな木の箱にいっぱいになりました。それは、観音様の前にそなえておいて、また新たにおさいせん箱をこしらえねばなりませんでした。
するうちに、またふしぎなうわさがつたわってきました。――竪田《かただ》の観音様は、こんどまた、旅にいかれるそうだ。そしてこんどは、少し長い旅らしいから、おるすにならない前に、早くお詣りをしておくがよかろう。
そのうわさといっしょに、また、近くや遠くからお詣いりに来る人がふえました。
「いよいよ用心しなければいけないよ」と、長彦はいいました。
「ええ、充分に気をつけます」と、丸彦は答えました。
四
さて、堅田の顔丸の丸彦は、腰《こし》に刀をさし、片手に、鉄づくりの鞭《むち》をたずさえ、片手には、たのしい法螺《ほら》の貝をもって、毎日、出あるきました。そして、怪《あや》しい者でもうろついてはいないかと、しらべてあるきました。
しかし、悪者の手がかりさえ得られませんでしたし、第一、観音様についてのふしぎなうわさも、どこから出たものやらさっぱりわかりませんでした。
ところが、ある日のことです。山奥の方をしらべあるいて、そして夕方になってから帰りますと、山の裾《すそ》のさびしい野原に、馬をつれた男が、ひとりで酒をのんでいました。
その男は、背中にけものの毛皮をつけ、足にわらじをはき、腰《こし》に大きな山刀《さんとう》をさして、猟師《りょうし》のようにも見えましたが、なんだか、ひと癖《くせ》ありげなようすでした。
それが、草の上にあぐらをかいて、徳利《とくり》と茶碗を前において、酒をのんでいるのです。
なお怪《あや》しいのは、そのわきに、馬が一頭、木につないでありました。そのへんに見なれない大きな馬で、栗色の毛なみはつやつやとして、額《ひたい》のまん中に白いところがあり、四つ足とも、ひずめの上の方だけが白毛で、じつに珍らしいりっぱな馬です。
顔丸の丸彦は、その男のそばに立ちどまって、じっと男を見つめました。もしやこの男が、へんなうわさをいいふらしてあるく悪者ではないかと、そんな気がしてなりませんでした。
男はじろりと丸彦を見あげましたが、だまって酒をのみました。
丸彦はそこにかがんで、だまったまま[#「だまったまま」は底本では「だまってまま」]、男の茶碗をとって、徳利から酒をついで、ぐっと一口にのみほしました。そして男をじっと見ました。
こんどは男が、茶碗に酒をついで、一口にのみほして、そしてじろりと丸彦を見ました。
丸彦はまた、茶碗をとって、酒をついで、一口にのみほして、そして男をじっと見ました。
男もまた、茶碗に酒をついで、一口にのみほして、丸彦をじろりと見ました。
ふたりとも、ひとことも口をききませんでした。
やがて、丸彦は立ちあがって、馬のそばにいき、そのみごとな姿をじろじろながめました。
男はあぐらをかいたまま、だまって丸彦の方を見ていました。
その時、丸彦はとつぜん、右手の大きな法螺《ほら》の貝を、馬の耳もとにくつつけて、息いっぱいに、ぶうぶうと吹きならしました。
馬はおどろいてとびあがり、男はおこって、山刀《さんとう》をぬいてとびかかってきました。
丸彦は一足よけて、鉄づくりの鞭《むち》を左手にふりかざし、男のほうをあしらいながら、右手の法螺の貝をなお吹きならしました。馬はますますおどろき、たけりくるって、綱をひききったはずみに、いっさんにかけ出しました。それを見ると、男はびっくりして、丸彦の方をすてて、馬のあとを追って走りだしました。
丸彦は、はははと笑いました。けれどやがて、笑いやめて、法螺の貝で額《ひたい》をこつんと叩きました。
「しまった。あの男は怪《あや》しい奴《やつ》だ。あれをつかまえるのだった」
しかしもう、馬も男も、どこかへいってしまって、姿は見えませんでした。
丸彦は、そそっかしいことをしたとくやみながら、家の方へかえっていきました。
野原をよこぎり、小さな丘をこえて、川づたいに帰っていきますと、その川の岸の柳のこかげに、なにか大きなものがつっ立っていました。もう、うす暗くなっていましたが、よく見ると、それが、さっきの馬だったのです。道に迷って、川岸にぼんやり立ちどまっているのです。
男の姿はどこにも見えませんでした。
「せめて、馬でもつかまえてやろう」
丸彦はそういって、しずかに歩みよって、まんまと馬をつかまえました。
つかまえてみると、なおさらりっぱな馬でした。これほどの馬は、どこをさがしても見つかりそうもありませんでした。
丸彦はすっかりうれしくなりました。その馬にのり、法螺貝《ほらがい》をこわきにかかえて、家へ帰りました。
そして丸彦は、長彦にあって、馬をいけどりにしてきたわけを話し、馬のじまんをしました。
長彦はいいました。
「なるほど、これはりっぱな馬だ。しかし、この馬をつかまえてきたことが、よいことになるか、悪いことになるか、いっそう用心しなければなるまい」
「私がひきうけます」と、丸彦はいいました。
丸彦はただ、馬のことがうれしくてたまりませんでした。そして、観音様《かんのんさま》のお堂のそばに、りっぱな馬ごやをつくりました。
五
それから、しばらくたちますと、なんとなく、怪《あや》しいことが目につくようになりました。
観音様にお詣《まい》りにくる人たちの中にまじって、目つきの鋭い、へんな男が、こっそりようすをうかがってるようでもありました。夜なかに、観音様のお堂のあたりで、物の音がすることもありましたし、馬がにわかに動きまわることもありました。庭のあちこちに怪しい足跡がついていることもありました。
そして、ある夜、おそく、馬ごやの中で、馬がひどくあばれだしたようで、それからまた静かになりましたが、かねて気をつけていた顔丸の丸彦は、そっとおきあがって見まわりにいきました。
月が出ているはずでしたが、霧《きり》のふかい夜で、うす暗くぼうっとしていました。すかしてみると、馬ごやの前に、黒いみなりの男が立っていて、馬ごやの中をのぞいていました。
丸彦はかけよるが早いか、男の頭を、鉄づくりの鞭《むち》でぴしりと打ちつけ、男がちょっとよろめいて立ちなおるところを、こんどは、そのわき腹を足でけりあげました。男は気絶してばったり倒れました。
けれど、丸彦はもうその男にかまっておれませんでした。そのすぐむこうに観音様《かんのんさま》のお堂の前に、もひとり、大きな男がつっ立っているのです。
やはり黒いみなりで、ひげをぼうぼうとはやした大男でした。恐れるようすもなく、丸彦の方をじっとにらみつけていました。
丸彦も大男をじっとにらみつけました。
大男は一足すすんで言いました。
「おまえは堅田《かただ》の顔丸の丸彦か」
「そうだ。おまえはなにものだ」と、丸彦はいいました。
「おれは、鞍馬《くらま》の夜叉王《やしゃおう》だ」
そして、ふたりはしばらくにらみあっていましたが、夜叉王は、地面に倒れている男をさしていいました。
「その男をもらっていくから、こちらにわたせ」
「わたさないぞ。ほしかったら、腕ずくでとってみろ」
そういって、丸彦は鞭《むち》を捨て、両手を広げてつっ立ちました。夜叉王《やしゃおう》も、腰《こし》の大きな刀をそこにおき、両手をひろげてつっ立ちました。
二人は、やっと組みついて、互いにあいてをねじ伏せようとしました。
丸彦はおどろきました。夜叉王の強いことといったら、まるで地面からはえぬいた岩のようで、押しても引いても手ごたえがありません。うんうんもみあっているうちに、丸彦は下におさえつけられました。
ところが、夜叉王はそれから丸彦ののどを[#「丸彦ののどを」は底本では「丸彦のどを」]しめつけようとしましたので、丸彦はそのすきをねらって、はねかえし、夜叉王の足をすくって、うまく夜叉王をおさえつけました。
丸彦はけんめいに夜叉王を押さえつけながら、頬をふくらまして、息のかぎり、法螺《ほら》の貝の音のまねを口で吹きならしました。
先ほどからの騒ぎと、今また、法螺の貝のまねの音を、聞きつけて、下男たちが出て来ました。
顔長の長彦も出て来ました。そしてとうとう、おおぜいで、夜叉王をしばりあげてしまいました。
気を失って倒れている男も、息をふきかえさしてしばりあげました。この男こそ、先日、野原で馬をつれて酒をのんでいたやつでした。
さて、こうなってみると、夜叉王も、さすがに覚悟がよく、すらすらと白状しました。――鞍馬《くらま》の夜叉王は、鞍馬山のおくにいる賊《ぞく》のかしらでした。堅田《かただ》の観音様《かんのんさま》の像のことをきいて、悪いことをたくらみました。それは、観音様を盗み出し、足に泥をぬってもとにもどし、そして手下共にいいつけて、いろいろなことをいいふらし、たくさんおさいせんが集まったところを、盗んでしまおうと考えたのでした。
ところが、夜叉王《やしゃおう》は、ゆっくりしておられないことになりました。京の都の大臣の所から盗んできた馬を、顔丸の丸彦にうばいとられてしまいましたし、その馬のことをよく知っている坂《さか》の上《うえ》の朝臣《あそん》が、堅田《かただ》にやって来られるそうでした。坂の上の朝臣は、もうすぐ来られるはずでしたから、どうあっても、その夜のうちに、馬を取り返し、おさいせんも盗んでしまうつもりで、だいたんにも手下とふたりきりで、忍びこんで来たのです。
「ひどいやつだ。うち殺してしまいましょう」と顔丸の丸彦はいいました。
「いや、まちなさい 私に[#「まちなさい 私に」はママ]考えがあるから……」と顔長の長彦はいいました。
そして、鞍馬《くらま》の夜叉王とその手下は、堅田の兄弟の所につなぎとめられました。
六
坂の上の朝臣は、はたして、堅田にやって来られました。堅田の顔長の長彦とは前からのしりあいでした。
朝臣は、堅田の観音様《かんのんさま》のふしぎなうわさをきかれて、顔長の長彦を疑われたわけではありませんが、いろいろ怪《あや》しいことのある世の中でしたから、じっさいのようすを見とどけに来られたのでした。そしておどろかれたことには、京の大臣の所で悪者に盗まれたあのりっぱな馬が、とりおさえられていましたし、うわさのたかい鞍馬の夜叉王がつかまえられていました。
それについて、顔長の長彦の話を聞かれて、坂《さか》の上《うえ》の朝臣《あそん》が満足されたことは、申すまでもありません。そしてこれから先のことについても、ことごとく、長彦の考えに賛成されました。
あの観音《かんのん》様の像は、またどういうことで、悪者どものために、よくないことに使われるかわからないから、琵琶湖《びわこ》に捧げて沈めることにしよう、というのです。観音様のうちにも、魚籃観音《ぎょらんかんのん》というのがあって、水に関係のふかいかたがあるし、また、水天《すいてん》という水の中の神さまも
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