《むち》でぴしりと打ちつけ、男がちょっとよろめいて立ちなおるところを、こんどは、そのわき腹を足でけりあげました。男は気絶してばったり倒れました。
けれど、丸彦はもうその男にかまっておれませんでした。そのすぐむこうに観音様《かんのんさま》のお堂の前に、もひとり、大きな男がつっ立っているのです。
やはり黒いみなりで、ひげをぼうぼうとはやした大男でした。恐れるようすもなく、丸彦の方をじっとにらみつけていました。
丸彦も大男をじっとにらみつけました。
大男は一足すすんで言いました。
「おまえは堅田《かただ》の顔丸の丸彦か」
「そうだ。おまえはなにものだ」と、丸彦はいいました。
「おれは、鞍馬《くらま》の夜叉王《やしゃおう》だ」
そして、ふたりはしばらくにらみあっていましたが、夜叉王は、地面に倒れている男をさしていいました。
「その男をもらっていくから、こちらにわたせ」
「わたさないぞ。ほしかったら、腕ずくでとってみろ」
そういって、丸彦は鞭《むち》を捨て、両手を広げてつっ立ちました。夜叉王《やしゃおう》も、腰《こし》の大きな刀をそこにおき、両手をひろげてつっ立ちました。
二人は、やっと組みついて、互いにあいてをねじ伏せようとしました。
丸彦はおどろきました。夜叉王の強いことといったら、まるで地面からはえぬいた岩のようで、押しても引いても手ごたえがありません。うんうんもみあっているうちに、丸彦は下におさえつけられました。
ところが、夜叉王はそれから丸彦ののどを[#「丸彦ののどを」は底本では「丸彦のどを」]しめつけようとしましたので、丸彦はそのすきをねらって、はねかえし、夜叉王の足をすくって、うまく夜叉王をおさえつけました。
丸彦はけんめいに夜叉王を押さえつけながら、頬をふくらまして、息のかぎり、法螺《ほら》の貝の音のまねを口で吹きならしました。
先ほどからの騒ぎと、今また、法螺の貝のまねの音を、聞きつけて、下男たちが出て来ました。
顔長の長彦も出て来ました。そしてとうとう、おおぜいで、夜叉王をしばりあげてしまいました。
気を失って倒れている男も、息をふきかえさしてしばりあげました。この男こそ、先日、野原で馬をつれて酒をのんでいたやつでした。
さて、こうなってみると、夜叉王も、さすがに覚悟がよく、すらすらと白状しました。――鞍馬《くらま》の夜叉王は、鞍馬山のおくにいる賊《ぞく》のかしらでした。堅田《かただ》の観音様《かんのんさま》の像のことをきいて、悪いことをたくらみました。それは、観音様を盗み出し、足に泥をぬってもとにもどし、そして手下共にいいつけて、いろいろなことをいいふらし、たくさんおさいせんが集まったところを、盗んでしまおうと考えたのでした。
ところが、夜叉王《やしゃおう》は、ゆっくりしておられないことになりました。京の都の大臣の所から盗んできた馬を、顔丸の丸彦にうばいとられてしまいましたし、その馬のことをよく知っている坂《さか》の上《うえ》の朝臣《あそん》が、堅田《かただ》にやって来られるそうでした。坂の上の朝臣は、もうすぐ来られるはずでしたから、どうあっても、その夜のうちに、馬を取り返し、おさいせんも盗んでしまうつもりで、だいたんにも手下とふたりきりで、忍びこんで来たのです。
「ひどいやつだ。うち殺してしまいましょう」と顔丸の丸彦はいいました。
「いや、まちなさい 私に[#「まちなさい 私に」はママ]考えがあるから……」と顔長の長彦はいいました。
そして、鞍馬《くらま》の夜叉王とその手下は、堅田の兄弟の所につなぎとめられました。
六
坂の上の朝臣は、はたして、堅田にやって来られました。堅田の顔長の長彦とは前からのしりあいでした。
朝臣は、堅田の観音様《かんのんさま》のふしぎなうわさをきかれて、顔長の長彦を疑われたわけではありませんが、いろいろ怪《あや》しいことのある世の中でしたから、じっさいのようすを見とどけに来られたのでした。そしておどろかれたことには、京の大臣の所で悪者に盗まれたあのりっぱな馬が、とりおさえられていましたし、うわさのたかい鞍馬の夜叉王がつかまえられていました。
それについて、顔長の長彦の話を聞かれて、坂《さか》の上《うえ》の朝臣《あそん》が満足されたことは、申すまでもありません。そしてこれから先のことについても、ことごとく、長彦の考えに賛成されました。
あの観音《かんのん》様の像は、またどういうことで、悪者どものために、よくないことに使われるかわからないから、琵琶湖《びわこ》に捧げて沈めることにしよう、というのです。観音様のうちにも、魚籃観音《ぎょらんかんのん》というのがあって、水に関係のふかいかたがあるし、また、水天《すいてん》という水の中の神さまも
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