以上の地位を占めるようになった実例を、文学史中に見出す時、現代日本の作家達は、如何なることを考えるだろうか。現代日本の純文学の中に、そういう例がないということは、作家たちがみな凡庸な故であろうか、或は社会の文学的教養なり関心なりが余りに低い故で、あろうか。
 そういうことも一応は考えられるとして、さてその次に、作品中の人物に対する直接的批評が、文芸批評家の中にも一向見出されず、文芸批評と云えば、作者の態度や心境と表現技法とに限られてるということは、何故であろう。稀になさるる人物批評に対して、「或る人物の或る場合」という遁げ道が作者に許されてるのは、何故であろう。茲に、短篇文学の弊が、余りに短篇のみの文学の弊が、あるのではないだろうか。
 作品が益々作者に従属してゆく傾向にあり、随って、作品中の人物の名前などは単なる符牒にすぎず、全作品に作者の名前が冠さるるだけで十分である、ということは現代文学の一特質である。然しながら、それは作品と作者との関係に於いて、云いかえれば作者の創作活動の積極面について、是認されることであって、文学者の偸安と責任逃避との口実に使用さるべきものではない。作者は作
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