長篇小説私見
豊島与志雄
文学の中に吾々は、種々の意味で心惹かるる人物を沢山持っている。友人や知人や恋人、敵や味方、崇高な者や惨めな者、自分の半身と思わるる者や不可解な者……。ハムレットやドン・キホーテなどの典型的なものから始めて、咄嗟に頭に浮ぶものだけでも、枚挙に遑がない。文学に親しんでる者にとっては、それらの人物の数や性格の多種多様さに於て、文学は歴史以上である。而も、史上の実在の人物が、時と場所との限定によって、吾々と縁遠い存在であるのに反して、文学上の人物は、同感的に或は反感的に吾々の心情に直接に触れることによって、吾々の身辺に近い存在である。吾々にとって、実在の人物が架空的になり、架空的な人物が実在性を持ってくる、この顛倒は、歴史と文学との本質的な一面を説明するものであろう。
或る時代の或る種類の文学をとりあげて、それが尋常の意味で吾々に生々と感ぜらるる所以は、右のような人物によることが多い。日本の歌舞伎芝居への関心から吾々が容易に脱せられないのは、その中に親しい人物を数多く吾々が持ってることが、最も大きな原因ではあるまいか。演劇上の様式のことは茲では問題でない。歌舞伎中の種々の人物が未知の他人となり終る時、即ちそれらの人物が死んでしまう時、歌舞伎の生命は薄らぐだろう。
吾々が種々の関心を以て、実在の人物に対するような気持で、呼びかけ得る人物、そういう人物を持つことの少い文学は、淋しい。日本の近代文学も淋しいものの一つである。人生の見方に於て、心理の取扱方に於て、社会的見解に於て、また芸術的表現方法に於て、世界的水準にまで眼覚めた日本近代文学のうちに、果して幾人、吾々が親しく呼びかけ得る人物があるだろうか。多くのすぐれた作品の名前を挙げることは、即座にでも出来る。然し、関心のもてる人物の名前を挙げてみよと云われる時、即座には固より、作品の頁をめくっても、答えは容易ではあるまい。これは人物の名前に対する吾々の健忘性の故ばかりではない。最近の例をとって見ても、「春琴抄」という作品の名は誰にも親しくなっていても、春琴という名前は既に縁遠く響くし、彼女の相手の男の名前は知る人さえも少い。「無法人」についても、「紋章」についても、同様のことが云える。文学に関する文章の中で、作品の名を挙げずに作中人物の名前がいきなり書かれたならば、多くの人はまごつくだろう。浪子、貫一、三四郎、机竜之助、丹下左膳……一体、真摯な文学は、そして作者が血肉を注ぎこんだ人物は、どこへ行ってしまったか。日本の名高い文学者について、その人が書き生かした人物が、果して幾人世人の頭に残っているだろうか。更に悲しいことには、果して幾人の人物の名前が、作者自身の頭の中にさえ残っているであろうか。
こういう現状であるからこそ、殊に、長篇作品が要望されるのである。人物を書き生かして実在的存在の域にまで高めることについて、短篇は到底長篇に及ばないのは明かである。が、このことに関して一言しておきたいことが一つある。
短篇では、分量の関係上、或る人物なり或る事件なりを全幅的に描くことは困難であって、多くは、人物や事件の断面図となる。云い換えれば、人生の断片となる。尤もこの人生の断片は、すぐれた作にあっては、全体を予想せしむる断片であって、書かれた部分以外に、その額縁以外に、広く進展する可能性を含有している。けれども、そうした断片を取扱う場合、特珠の場合を除いて大抵は、その文学的操作法に一種の限定が生ずる。そしてこの限定は、作者と対象とを分離させる作用をなしがちである。
事実に即して云おう。短篇の批評に於ては、作者の態度とか心境とかいうことが、作品の内容と切離して見らるることが多い。ところでこの作者の態度とか心境とかいうものは、云わば人生に対する作者の身構えであって、それは作品の基調となるものではあるが、作品の中に直接盛りこまれるものではない。だからこの問題に関する限り、作者はその作品の内容について、常にこう云うことが出来る、「あれは、或る人物の或る場合のことを書いたのだ。」
こうして作者が一人傲然と構える時、そこに置きざりにされた「或る人物の或る場合」はどうなるか。それは一つの特殊の相ではある。或る人物の或る場合であることに変りはない。だが、この「或る」というのが曲者だ。人は誰でも人間たる限り、自分のうちに無数の動向性を有し、偶然への無数の逢着性を有している。それ故、「或る」という特殊は、可能という見地からすれば、直ちに普遍となる。或る人物の或る場合は、誰でもいつ出逢うか分らない場合となる。
作者はその態度とか心境とかいう立場で作品の後方に控え、作品は或る人物の或る場合という口実の下に普遍性を帯び、そしてただ芸術的技法のみが問題となってくる時、作品中の人物
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