於いてはさほどの難事ではない。
右の両面の合体のうちに生れた人物こそ、真の批評の対象たり得る。それらの人物は、それ自身として限定された独自の存在を持ち、独自の思想を持ち、独自の情意の動きを持つ。而もそれらの人物は、時処の限定を受けずして、吾々の身辺につっ立つ。それらの人物に対する直接の批評は、社会に生きた反響を及ぼす筈である。この一点によって、文学は実社会と最も密接な交渉を持つだろう。
素材の取扱方とか、表現技法の巧拙とか、作者の態度や心境とか、そういう事柄だけが問題である時、文学は人生に対して日影の地位をしか占め得ないだろう。文学をその日影の地位から脱せさせるには、実在の人物についての人物評論と同様なもの、もしくはより以上深刻なものが、作品中の人物についてなされることが、何よりも必要である。文学者の地位の向上とか、文学者に対する社会の認識の是正ということも、一応は役立つであろうが、人物評論の対象として堪え得るだけの人物が作品中に現われることが、何より肝要であろう。
作品中の人物が、文学の領域を超えて、社会各方面からの注意と批評とを招き、やがてそれが実在の人物と同様のもしくはより以上の地位を占めるようになった実例を、文学史中に見出す時、現代日本の作家達は、如何なることを考えるだろうか。現代日本の純文学の中に、そういう例がないということは、作家たちがみな凡庸な故であろうか、或は社会の文学的教養なり関心なりが余りに低い故で、あろうか。
そういうことも一応は考えられるとして、さてその次に、作品中の人物に対する直接的批評が、文芸批評家の中にも一向見出されず、文芸批評と云えば、作者の態度や心境と表現技法とに限られてるということは、何故であろう。稀になさるる人物批評に対して、「或る人物の或る場合」という遁げ道が作者に許されてるのは、何故であろう。茲に、短篇文学の弊が、余りに短篇のみの文学の弊が、あるのではないだろうか。
作品が益々作者に従属してゆく傾向にあり、随って、作品中の人物の名前などは単なる符牒にすぎず、全作品に作者の名前が冠さるるだけで十分である、ということは現代文学の一特質である。然しながら、それは作品と作者との関係に於いて、云いかえれば作者の創作活動の積極面について、是認されることであって、文学者の偸安と責任逃避との口実に使用さるべきものではない。作者は作
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング