が独自の存在を失ってくるのは、当然の結果であろう。之に反して長篇は、普通の人物の普通の場合を取扱っても、それが比較的全幅的に書き生かされる時、それ自体の限定によって、より多く特殊的となる。そしてその人物は、独自の存在を得る。
 固より、人物を生かすこと、人物に独自の存在を得させることが、文学唯一の務めではない。現代の文学は、実在的人物の描写よりも、自己表現ということが、より重要な事柄となっている。広汎な意味での自己を、もしくは自己のうちにある何かを、具象的に表現するということが、最も重要な問題となっている。然しながら、具象的に表現されたものそのものは、独自の存在を持つべきだということが、具象的表現の内在的目的であって、表現されたものそのものは、作品の中では、結局一個の人物ということに帰着する。
 作者によって表現され独自の存在を与えられたかかる人物に対してこそ、実は、最も根本的な無慈悲な解剖や批評がなされるのである。例えば、アリサやミシェルやラフカディオなどは、アンドレ・ジィドの精神の一部を代表するものではあっても、各自に独立した一の人物として生きているのであって、これに対して吾々は忌憚なき批評をなすことが出来る。文学の領域内の種々の専門的技法の問題としてでなく、生きた人生の問題として論議することが出来る。
 実在的人物の描写から、広汎な意味での自己表現というところへまで、文学が進展させられている現代に於て殊に、長篇作品が要望されるのである。この自己表現という要素は、短篇にあっては往々、作品の空疎を来す恐れがあるけれども、長篇にあっては、作者に精神的活動の自由を与えると共に、作品の立体的重厚さを増させ得る。現実に奉仕することは、横へ横へと平面的な拡がりをのみ招く危険が多いが、それに作者の意欲的創造を加える時には、縦への立体的拡がりを加える結果が得らるるだろう。
 この実際的問題については、理論的解説をなさずとも、多くの長篇作品が示してくれている。前に述べたジィドの作品は固より、ドストエフスキーの諸作もそうであるし、トルストイの最も現実的な作品でさえもそうである。なお、自然主義の作家についてもこのことが言える。すぐれた作品はみな、現実奉仕の一面と共に、作者の意欲的創造の一面をも持っている。そして、この両面をしっくり合体させ得ることは、短篇に於いては困難であるが、長篇に
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