うな雨が降っていて、いい晩ですよ。そいつを、むりに自動車《くるま》にのっけるもんだから……。意趣晴らしだ、一杯のまして下さい。」
「だめだめ、もう何時だと思って?」
「何時だって……。一体、女にとっては、何よりもかによりも、時間が一番大切らしい。それが、癪にさわることの一つ。それから……。」
「それから?」
「とにかく、一本だけ。」
 そして片野さんは、両の踵で器用に靴をぬいで、膝頭で小座敷の方へ上っていった。表からはいってくると、小椅子をそろえた卓子が五つ並んでる土間、それに続いて四畳半の座敷、それだけの店なのである。
 芳枝さんは、向うにぼんやり立ってる佐代子に用を云いつけておいて、小皿の膳を運んできて、瓦斯ストーヴに火をつけた。がその方へは手もかざさず、じっと相手の顔に眼を注いだ。
「どうしたの?」
 片野さんは、へんに神妙に彼女の顔を見返した。
「もう一時よ。」
「すみません。」そして片野さんはにやりと笑った。
「ばかね。あれから、家に帰らなかったんでしょう。」
 片野さんはうなずいたが、こんどは眼付で笑っていた。
「ちょっと、気にかかることがあってね……。実は、あちこち、飲み
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