た。コップは壁に当ってばかに大きな音を立てて砕け散った。その瞬間に、芳枝さんはあッと叫んだ。佐代子の手に、料理用の鋭い出刃が光っていた。芳枝さんは真蒼になった。佐代子も真蒼になって、石像のようにつっ立った。
 ほんの一瞬の気合いだった。芳枝さんがぱっと身を飜えして逃げ出すとたんに、佐代子も出刃を投げ出して、逃げ出した。その二人の動作がかちあって、出刃は芳枝さんの足に触れた。芳枝さんはばったり倒れた。丁度足袋の上の足首のところから血がふき出して床に流れた。
 佐代子はそれに気がつかなかったらしい。裏口にかけよって、戸締りをあけると、表にかけ出してしまった。
 芳枝さんは起き上った。ハンケチで傷口を結えた。だがそれでは足りなかった。
 俺は芳枝さんに手伝ってやらねばならなかった。それから、佐代子をも探しに行かなければならなかった。そして、面白いどころか、へんに憂欝になってきた。みんな何てざまだ。ばかげた気持を通りこして、佗びしかったのだ。



底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「中央公論」
   1937(昭和12)年5月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年4月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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