に酔客の相手をして、高い笑い声を立て、さしつけられる杯を、ふだんは手にもふれなかったが、ぐいと一息にあけていた。一体この家は、芳枝さんが上品に上品にと取繕ってるものだから、美智子も佐代子も物静かに振舞って、乱暴な客もなく、高橋の巧みな板場の腕も手伝って、困るような酔っ払いもなく、十二時近くなるとみんな帰ってもらえるほどだった。それが今日は、佐代子がへんにはしゃいで、会社員風の三人連れの客のところへ、やたらに銚子をはこび、高笑いして酒の相手になっていた。
「ちょいと、高橋さん、あんたの腕前がいいから、祝杯をあげるんだってさ。出ていらっしゃいよ。」
高橋は板場の奥から笑っており、芳枝さんと美智子は眉をひそめていた。
「はいお冷《ひや》。」
そういって佐代子ほ、水の代りに冷酒をコップについできたりした。
「佐代ちゃんえらい。こうサーヴィスがよけりゃ、毎晩のみに来てやるぞ。」
「早く来なけりゃ、大入で、席がふさがってるわよ。」
どこで覚えたか、「クカラッチャ」のメロディーなんかあやしげにくちずさんで、足もとがもうふらついていた。
出口に近い一人の客が立ち上って、その拍子に椅子を倒した。その音に、佐代子はとび上って驚いたらしく、卓子につかまって息をつめた。顔色をかえていた。それから笑い出したが、気のこもらない笑い方で、やがて、美智子のところにいって、その肩につかまった。
「ごめんなさい、ね、ごめんなさい。あたし酔っちゃって……。」
しきりに詫びる彼女を、美智子は何のことか分らなくて、もてあましていた。佐代子は頬をふくらまして、ぷいと美智子の側を離れて、それからもうはしゃがなかった。
そして時間がたって、客も立ち去り、主婦の事情を知ってる高橋と美智子も帰っていったが、片野さんは浮かぬ顔付でまだ酒をのんでいた、芳枝さんも言葉少なだった。小料理屋なんかうるさいから止めて、※[#「さんずい+粛」、第4水準2−79−21]洒な喫茶店でも始めたいと、気の弱いことを云い出した。片野さんの方では、津島さんから話のあった会館の室の、大凡の設計が出来上りかけたなどと話していたが、少しも気乗りのしてる風ではなかった。何かへんに冷たい空気だった。そして二人は、二階に上っていった。
おかしいのは、二人とも、佐代子に言葉もかけなかったのである。佐代子はまるで忘れられたように、そして自分でも自分を忘れたように、板場の奥に引込んでいたが、一人きりになると、俄にぞっと震えて、それから急いで後片付をすまし、電燈を消したが、板場の奥の一つだけを残して、そこの火鉢の上にかがみこんでじっと考えに沈んだ。
いつまでも彼女は身動きもしなかった。火鉢の火にぼんやり眼をすえて、心で、何か聞き入り見入ってるようだった。
恐らく故郷のことでも、潮風のことでも、思い出していたのだろう。
彼女の父親が難破して死んだのは、彼女の十歳の時だった。それから彼女が小学校を終えた翌年、母親は感冒から肺炎になって死んだ。彼女は近くの町に出て、料理屋の女中になった。一年半ばかりでそこを逃げ出して、東京で折箱屋をやってる伯母を頼ってきた。伯母の家で、五年間手荒い仕事に骨身おしまず働いた。それから伯母のところがうまくいかず、店をしまうことになった時、彼女は女中奉公に出た。小さな請負師の家で、給金もろくに貰えなかった。彼女は自ら周旋屋にかけこんで、伯母の懇意だった人に身許引受人となってもらい、二三転々して、そして只今の芳枝さんの家に来たのだった。彼女は気は利かないが、その代り正直だった。何か荒々しいものを内にもっていて、そして表面うすぼんやりしていた。
彼女は男のように腕組みをして、火鉢の上にかぶさりて、じっと考えこんでいた……。
俺は彼女のその瞑想を尊敬して、ただ見守っていてやった。
二時頃だったか、二階から足音がおりてきた。静かな足音だった。片野さんと芳枝さんだ。二人とも黙っていた。芳枝さんは裏口の戸をあけた。
「じゃあ、きっとね。」
「大丈夫。」
だが、片野さんは力なさそうだった。芳枝さんの手を握りしめておいて、外に出るとすぐにうなだれて、考えながら歩いていった。
芳枝さんは戸締りをして、二階に上りかけたが、急に足をとめて、板場の方をすかし見た。そしてちょっと佇んでいたが、つかつかとやって来た。
「そこで、何をしてるの。」
佐代子は立上った。
「何をしてるのさ、今頃まで起きていて。」
佐代子は幽霊でも見る様に、惘然として相手を見ていた。
「ばか、何してたんだよ。」
芳枝さんの細そりした顔が、憤怒に歪んだ。足が震えていた。よろよろと歩みよって、佐代子の頬をひっぱたこうとした。びっくりして俺がその手を遮った、それがいけなかったらしい。彼女は手当り次第にコップをつかんで投げつけ
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