野の幻影に悩まされた。そして遠廻しにあてこすりを言ったものだが、或る時、気にくわぬことがあって、中野との関係を詰問した。彼女は笑って取り合わなかった。中野はただ酒を飲みに来る客というだけで、それ以外の関わりは何もないと、頑強にそして平然と否定した。
「ただ、耳を舐められただけよ。」
それが、何のことだかおれには分らなかった。
「もっとはっきり言えよ。」
「だから、耳を舐められただけ。」
或る夜のこと、他の酔客も立ち去って、中野一人となった。冗談口を利いてるうちに、中野はいつしか黙りこんで、それから、実はたいへん気にかかる秘密事があると囁いた。
「耳をかしてと言うから、あたし、スタンドの上にのりだしてる中野さんの方へ、耳を向けたわ。すると、ただ熱い息だけで、何の声もしやしない。そして、耳朶に何かさわったようで、それから、急にくすぐったくなったから、びっくりして飛び上った……。それだけ。」
「それから……。」
「中野さん、笑ってるから、ばか、と言って、睨みつけてやったら、しょげてたわよ。まるっきり子供ね。」
その、再話ではあるが、ばかという言葉がへんにやさしく響いたのを、おれは心に留
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