れよりか、まったくふしぎよ。」
ふしぎというのは、七時のところにだけ一枚残ったことだった。彼が言うには、この頃、毎日続けて朝の七時に夢をみる。へんな夢をみる。それが気になっていたところへ、トランプがまたそれを示した。
「マダムも、七時に夢をみるでしょう。」
「七時頃、夢なんかみないわよ。」
「でも、今にきっとみるようになってよ。」
「どうして。」
「占いに出たんだもの。七時に夢をみたら、どんな夢だか、あたしに話してね。ちょっと気になることがあるのよ。」
彼はスぺードの7を手に持ったまま、睫毛の長い黒ずんだ眼で、彼女の顔をじっと眺めた。彼女は笑みを含んでその視線を受け留め、彼のグラスにウイスキーをついだ。
「さあ、占いの一杯よ。」
彼は一息にそれを干して立ち上った。おれに一礼した。
「どうぞ、ごゆっくり。お先に失礼します。」
一人になってから、おれは急に癇癪が起りそうで、歩き廻った。飲みなおしに、日本酒の熱燗を頼んだ。もう湯はさめきっていた。ぐずぐずしてると、階下の表口ばかりでなく裏口も閉めきられて、厄介なことになるかも知れなかった。
「いいさ。夜明しで飲むよ。」
「じゃあ、あたしもつきあうわ。」
二人とも酔ってたけれど、そんなことになったのは、中野の幻影が残ってたせいもある。その幻影をそのまま置き去りには出来なかったのだ。
酒場の奥は六畳の日本室だ。置床と押入があって、雨戸に硝子戸にカーテンと、わりによく出来ている。そこに、小机、用箪笥、鏡台、食卓、火鉢、其他一通りの器具が、ごっちゃに雑居している。おれと彼女は、電熱器のそばに一升瓶をひきつけ、飲みながら夜明けを待った。待つうちに酔いつぶれた。何かしらもうめちゃくちゃだった。そしておれは彼女の体温の中に沈没した。僅かに覚えてることは、おれが少しく狂暴だったことと、彼女が少しく冷静だったことだ。彼女は衛生器具を備えていた。それから、その後も、彼女は冷感性かとも思われるふしがあった。ただ、彼女の乳房と、腿は甚だしく豊満だ。おれがもし画家だったら、乳房と腿だけを巨大に誇張して彼女の肖像を描くだろう。
その巨大な乳房と腿とは、おれの理智を麻痺させ、おれの感情を麻痺させ、おれの眼をつぶらせる。そこでは、眼を開くことが不安で、眼を閉じることが楽しいのだ。それでも、おれは時々あばれた。彼女を実は愛してるのか憎んでるのか分らない気持ちの、一種の焦燥のあまり、その胸を殴りつけ、その頸に噛みついた。痕跡の紫斑を隠すためか、彼女は和服を着ることが多くなった。冷静なのだ。
或る時、おれを本当に好きかどうか尋ねたのに対して、彼女は冷静に答えた。
「好きよ。あんたのごつごつしてるのが、好きよ。男ののっぺりしてるのは、あたし嫌い。」
ごつごつしてること、感情的にも身体的にもごつごつしてること、それは彼女の豊かな肉体には一種の快適な刺戟[#「刺戟」は底本では「剌戟」]ではあろう。だが、中野はいったい彼女にとってどうなのか。おれとああいう仲になってから、中野を見る彼女の眼眸はますますやさしさを増したことを、おれは知っている。中野に耳をしゃぶらせ、くすぐったくて飛び上ったではないか。それ以上の肉体的交渉は、彼等の間になさそうだが、それが却っておれに不安を与えるのだ。おれはいつしか中野を避けるようになってしまった。だが彼の幻影は、彼女との抱擁の中にまでつきまとってくる。それでもおれは一人になると、へんに肌がうすら淋しく、ふくよかな彼女の体温が恋しくなる。そしてしばしば、夜明しの酒飲みに、つまり泊りに行った。
おれはなるべく他の客達と顔を合わせるのを避けた。「マダム」の愛人らしい振舞いではなく、その間男らしい振舞いなのだ。他の客達の中心には、言うまでもなく中野卯三郎がいた。そしてややもすると、彼からおれの方へ押しよせてきた。
それでも、やはり、おれは虚勢を張って、酒場で早くから飲みだすこともあった。喜久子は何喰わぬ風を装っているが、語調や素振りの些細な点で、おれとの親昵を[#「親昵を」は底本では「親眤を」]曝露してしまう。それによっておれは却って救われた気持ちになる。思えば浅間しい限りだ。
なるべく早く酔ってしまいたく、立て続けに飲んで、さてその後では時間をもてあまし、屋上をぶらつくことも、しばしばあった。――先日もそうだった。冷かな夜風がそよ吹いて、上弦の月が西空にかかっていた。その淡い月光は、高いビルの屋上では、地上よりも身にしみて、園部の所謂旅情をそそる。おれは胸壁にもたれて、煙草を吸った。その時、中野が近づいて来た。彼を平気で迎えられたのも、旅情のせいだったであろうか。
彼はもう相当飲んでるらしく、二三度大きく息をついた。そして何か憚るようにゆっくり口を利いた。さすがにおれに向っては
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