要であり、その上で肚を据えて支那民衆の中へはいってゆく人々が何よりも必要である。殊に文化部面に於てそうであることは云うまでもあるまい。
この意味で、上海に於て大きな役割をしているところの、自然科学研究所の上野太忠氏や内山書店の内山完造氏や、また中華映画の川喜多長政氏や、其他茲にちょっと名前を遠慮したい要職の人々があるのは、意を強うするに足ることである。但しこれらの人々について何かを云うのは、今は差控えよう。
たださし当っての問題として、私が見聞したところでは、各地に幾つかある日語学校の教材について、考慮の余地が充分あるように思われる。杭州の日語専門学校などには中等学校卒業生や専門学校卒業生など集まっており、日語の教授は熱心になされ、学生の進歩も速かなようであるけれど、その教材の不足は同情に価するものがある。
茲に教材の不足という意味は、適正な教材のそれを指すのである。適正な教材とは、偏狭な日本的な何かを上から押しつけるようなものではなく、新東洋文化建設のためにも、一応は学生等の側に立って考究し検討されたもの、そういうものであるべきだと私は理解している。そしてそういう教材が実に不足
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