うし、其他いろいろあろう。
 然しながら、この蘇州百貨公司の支配人田中正佐氏の努力を見落してはならない。田中氏は中支への物資供給に主要な役目をも勤めながら、百貨店を通じて蘇州の民衆に働きかけ、その文化工作にも意を用いている。そしてこの蘇州百貨公司は、氏の語るところに依れば、月に二千円の損失だという。この損失は、長い目で見れば一種の投資だとの見解も成立するだろうけれど、然し、一個の営利会社でこれを押し切ってるところに注目を要する。
 支那現地の人々がこぞって憤慨しているものに、一攫千金を夢みて渡支して来た利権屋や商人の多数が第一に数えられる。これは殆んど常識的な事柄にさえなっている。然しながら、更に一般的に、直接目前の利益を目指す性急さが日本の個人資本及び会社資本の通弊だと、心ある人々から認識され始めてきた。これは、つまり、観念的には支那を食い物にするということになる。それほどでなくても、当面の利益を挙げないことが責任者の無能を表示するものと見る、誤った性急さがなお多かろう。このことに関係があるかどうか私は知らないが、華中蚕糸のような大会社に対する現地の人々の非難は、充分考慮に入れなければなるまい。
 こういう現状に於て、蘇州百貨公司のやり方は注目の要があるというのである。これはつまり、一営利会社の立場にばかりでなく、蘇州民衆の立場にも立って営業が続けられているのであり、観念的には日支共存の思想にまで延長出来得る萠芽を持っているものだと、この方面に全くうとい私が想像するのは、行きすぎであろうか。
 結局は経済力資本力の問題だと人は云うだろう。然し私はそんなことを茲に取上げるのではない。これを機縁にして、支那民衆の中へ共存生活の気持ではいってゆくか否かを、考えてみたいのである。日本の側に於てこの根本の考察を誤ったならば、揚子江は常に経済的条虫であり上海は常に経済的癌腫だとの状態が、支那から除去されないだろう。
      *
 治安工作の方面や経済提携の方面について、私が以上の如き不馴れな筆を運んだのも、喜ばしい事実に直接触れたからに外ならない。今次の戦争を真の聖戦たらしめ、今次の事変を支那民衆の解放の転機たらしめ、新支那中央政府に愛国運動たるの面子を保たしめ、かくして東亜新秩序を牢固と確立するためには、あらゆる方面に於て、一応支那民衆の側に立って物を考えてみることが必要であり、その上で肚を据えて支那民衆の中へはいってゆく人々が何よりも必要である。殊に文化部面に於てそうであることは云うまでもあるまい。
 この意味で、上海に於て大きな役割をしているところの、自然科学研究所の上野太忠氏や内山書店の内山完造氏や、また中華映画の川喜多長政氏や、其他茲にちょっと名前を遠慮したい要職の人々があるのは、意を強うするに足ることである。但しこれらの人々について何かを云うのは、今は差控えよう。
 たださし当っての問題として、私が見聞したところでは、各地に幾つかある日語学校の教材について、考慮の余地が充分あるように思われる。杭州の日語専門学校などには中等学校卒業生や専門学校卒業生など集まっており、日語の教授は熱心になされ、学生の進歩も速かなようであるけれど、その教材の不足は同情に価するものがある。
 茲に教材の不足という意味は、適正な教材のそれを指すのである。適正な教材とは、偏狭な日本的な何かを上から押しつけるようなものではなく、新東洋文化建設のためにも、一応は学生等の側に立って考究し検討されたもの、そういうものであるべきだと私は理解している。そしてそういう教材が実に不足しているのである。この不足を満すためには、多くの人の協力を必要とするだろう。
 更に、小学校に於ける日本語教科書の問題、日本語或は支那語の児童読物の問題など、未開拓の領域は限りなく広い。
 信教の方面に於ても、仏教によるいろいろの工作が行われてるようであるけれど、充分の見透しがついているのであろうか。支那のインテリ階級は、日本のそれと同様、殆んど宗教に関心を持っていない。また、今もなお百名や二百名の僧侶が修業してる大寺院があり、由緒ある名刹は至る処にあるが、これらは大抵、所有の不動産からの収入で支持され、一般大衆にとっても、仏教はもはや生きてる信教ではなくなっている。こういう実情に対して、仏教班首脳部の方針は、並びに派遣員の見解は、如何様に建てられているのであろうか。単に名刹の保存のみが目的ではあるまい。
 其他、一々挙げれば限りがない。そしてこの枚挙に遑ないほどの各部門に於て、今や、共存の理念を以て民衆の中へ能才のはいってゆくのが待望されてる時期なのである。
 眼を転ずれば、中支の風光は日本のそれに甚だ似ている。鎮江郊外の古の竹林の七賢の伝説のある竹林寺などを訪れる者は、松や櫟の立並
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