った。それから葡萄酒を二杯飲んだ。
八時過ぎに秋子さんが俥を走らせて訪れて来た。彼女は眼を伏せて婆さんに導かれるようにして室の中にはいって来た。そして最後に障子の硝子の代りにはられた白い紙を見た。それから敬助の方を見た。
「秋子さん!」敬助はそう云って、床の上に起き上ろうとしたが、また身体を横にしてしまった。そして慶子にそっくりの彼女の真直な眉と心持ち黒目の小さな眼とを、彼は眺めた。ただその眼は赤く脹れ上っていた。
暫く沈黙が続いた。
「御気分は?」と秋子は云った。
「もういいようです」と敬助は答えた。
暫く沈黙が続いた。
「兄が宜しく申しましたの。」
「御心配をかけてすみません。」
また沈黙が続いた。
「外はお寒いでしょう。」と敬助は云った。
「ええ、すこおし……。」
また沈黙が続いた。
その時中西は立ち上った。そして階下を下りて行った。看護婦は階下で食事をしていた。
二人になると急に感情がこみ上げて来た。敬助は身を起した。すると秋子は彼の手に縋りついた。
「兄さん!」と彼女は叫んで泣き出した。
それは彼女が敬助に向けた最初の呼名だった。然し二人はそれに自ら気付かなか
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