おい!」そう彼は呼んだ。そして自分でもその声の大きいのに喫驚した。
中西が飛び起きて彼の側に来た。
「先刻誰か此処に来てやしなかったのか。」
中西は暫く彼の顔を窺っていたが、遂に云った。
「秋子さんが来ていた。」
その一言に彼は昨夜からのことがはっきり思い出せた。
「なぜ起さなかった?」
「よく眠ってたから。……秋子さんはまた来ると云っていた。」
敬助は何ともいわないで、中西の顔から眼を外らした。静に涙が湧き出て来た。彼は夜具を頭から被った。そして唇をかみしめた。いい知れぬ悲しみの情が胸の底からこみ上げて来た。眼瞼を閉じて涙を押え止めていると、頭がくらくらとしてきた。拳《こぶし》で一つ頭を叩くと、凡てが遠くなっていった。
やがて彼は静に蒲団から顔を出した。何という変化だろう。凡てのものが不思議に思えた。自分の生命が、時間が、あの事変の前後に於て、ふっと暗闇のうちに吸い込まれていた。そしてあの時の光景ばかりが明かに輝いてみえていた。或る距離を置いてそれをじっと見つめていると、それにもはや近づけないことを知ると、限り無い悲しみの情が湧いてきた。而も現在の事物が何というまざまざとし
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