れくらい時間がたったか覚えない。或は一寝入した後かも知れなかった。私はふと眼を覚した。閉め忘れたカーテンの隙間から、ぼんやりした明りがさしていた。そのカーテンを閉めようと思って、一寸上半身を起しかけた時、何気なく上の方を見ると、上の段のカーテンの裾から、先刻の片足が、ぶらりと下っていた。
 私は急にかっとなった。失礼なと思った。大きい声を出して、上の寝台の縁を叩いた。
「危いですよ……足が落ちかかってるじゃありませんか……足が……足が落ちかかっていますよ。」
 一寸間があった。
「いや、どうも……。済みません。」
 寝呆けたような声がして、足が引込んで、それから、暫くごそごそと物音が続いた。がやがて、ひっそりとして、列車の響きだけになった。
 私はカーテンを閉め切った。変にむし暑かった。足の幻想が消えて、現実的な醜い印象だけが残った。私は腹立たしくなったり可笑しくなったりして、長く寝つかれなかった。二つばかり駅を過ぎた。そしてなお闇夜の中を汽車は走り続けていた。
 翌朝遅く私は起き上った。遅くと云っても列車内のことで七時頃だったろう。
 寝台から飛び出して、真先に覗いて見ると、上の段はカーテンを開け放してあって、男はどこかへ行っていた。
 顔を洗って帰ってくると、ボーイが座席を片付けていてくれた。上段の男は、もう汽車から降りたのか、それらしい姿も見えなかった。
 汽車は琵琶湖の岸を走っていた。どんよりと曇った風のない朝だった。
 私は食堂へ行った。睡眠不足と疲労とのために、頭が重苦しかった。
 それから自分の座席に戻ると、私の側に、四十年輩の飛白《かすり》の着流しの男が坐っていた。そしてふいに私へ声をかけた。
「どこまでおいでになります。」
「下関まで行きます。」
 それには何とも返辞をしないで、だいぶ暫くたってから、ふいに云い出した。[#「ふいに云い出した。」は底本では「ふいに云い出した。」」]
「昨晩は、どうも……とんだ失礼をしました。」
「え?」
「少し飲んでいたものですから、よう寝込んでしまって、度々どうも……。」
「じゃあ……あの……。」
「え、足を……どうも……。」
「ああそうですか。私こそ失礼しました。」
「いや、どうも……その……習慣になってるものですから。」
 繰返される「どうも……」という言葉の響きに、私は彼の人の善さを感じながら、初めてその様子を見調べてみた。髪の毛の薄い、痩せ細った、病身らしい男で、長い首に喉仏が高く出ていた。浅黒い顔の色艶は、呼吸器か消化器かが悪い者のようで、眼の光が疲れて、黝ずんでいた。
 彼は私の顔を時々偸み見ながら、ゆっくりした調子で云っていた。
「どういうものか、横になると膝から下がだるくて、かないません。それで、いつも膝の下に物をあてて寝る癖がついて、どうもそうしないと、よく寝つけないです。で、昨晩も、この鞄を膝の下にあてて寝ましたところが、どうも……。」
 隣席との境の床《ゆか》に、大きなトランクがあって、その上に、小さな赤革のスーツケースがのっていた。彼はそれを指し示していた。
「どうも……汽車が揺れるせいか、かたっぽの足が滑りおちて、それも知らずに、ぐうぐう寝込んでしまいまして、恥しいお話です。けれど、そういうわけで、決して無作法な真似をしたのではありませんから……。」
 彼は昨夜のことを弁解してるのだった。私は気の毒な思いをして、笑い話にしてしまおうとした。
「私はまた、あなたが落っこちでもされたら危いと思って、とんだお節介をしたんですが、初め……足が片方ぶら下ってるのを見た時は、喫驚しましたよ、お化かと思って……。」
「それは……まあ何とも……。」
 彼は私の笑顔にも応じないで、真面目な憂欝な顔を崩さなかった。
「然し、癖もいろいろありますが、膝の下に物をあてがって寝るというのは、珍らしい癖ですね。ずっと以前からそうなすってるんですか。」
「もう五六年にもなりますかな……。私は慢性の胃病で、そのために足がだるい、そう医者は云いますが、どんなもんですか。……家内が心配してくれまして、膝の下に何かあてて寝たらよいと云うて、小さい厚布団を作ってくれましたんで、至極工合がよろしゅうて、それが習慣になりましてな、家では不自由しませんが、旅に出ると、よく困ることがあって、どうも……時々やりぞこないましてな……。」
 その調子は別に困ってるようでもなかったが、何かしら彼の全体から、変に憂欝なものを私は感じて、何と云っていいか分らなかった。
 やがて大津に近づくと、彼は慌てて帯をしめ直して、それから暫く黙って坐っていたが、汽車が駅にはいりかけた頃には、もう立ち上っていた。
「つまらんお饒舌をしまして、失礼しました。私は此処で降りますから……。」
 そう云い捨てて、彼は少し猫背加減の
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング