で、親しげに話をした。久子はお茶をいれて、しばらく世間話に加わり、それから子供達を連れて菓子を買いに行った。帰って来ると、二人の気色が変っていた。美津子は菓子にも手をつけず、そこそこに辞し去った。
珍らしいことには、カヨはしんから腹を立てていた。
「あんな厚かましい、恩知らずの成り上り者は、もう家に寄せつけてはいけません。」
何をそんなに怒ってるのか、久子は尋ねかねたし、カヨもそれより口を噤んで、二階にひっこんでしまった。
食事は一階でみな一緒にするのである。桂介が帰ってきて、夕食の時に、カヨは言った。
「戦争に負けて、人間もみな悪くなった。昔は、政治に関係すると、損をしたものですが、今では儲けています。木村さんがそうです。あんな人と交際してはいけません。」
何のことか桂介にはよく分らなかった。亡父の正秋は、晩年、政治に関係するようになって、だいぶ家産を傾けたことは、桂介も知っている。家屋や敷地をカヨの名儀にしてあるのも、万一の場合を慮ってのことであろう。然しそれが、木村又太郎と何の関わりがあるのだろう。
カヨはもう、怒ってるというより、心配してる方が多いようだ。桂介が尋ねるのに応じて、美津子との破談の理由を打ち明けた。白壁造りの普請のことは、口に上る隙がなかったらしい。材木代や建築費はさし当って木村が立替えておいてもよいが、見積り金額の借用証を一札入れて貰いたく、ついては、昔から知り合いの間柄ではあるが、確実を期するため、白井家の現在の土蔵と地所とに抵当権を設定さして貰いたく、その代り利子はいらない、という条件に、カヨは腹を立てたのである。つまり抵当云々が気に入らないのだ。その地所、殊に土蔵は、彼女の唯一の棲息場所であり、白井家の家名を担ってるものである。それを抵当とは、とんでもないことだ。
桂介は意外だった。抵当の条件は、美津子からちょっと聞いてはいたが、一時のこととして、気にも止めなかった。家屋や地所がカヨの名儀であることさえ思い浮べなかった。抵当に入れたらそのまま騙り取られるもののように、彼女は思ってるのであろうか。
「わたしはもう決して、実印のはんこはおしませんよ。ほかに使うものも無くなったし、この家きりだから、実印はどこかに捨ててしまいます。」
彼女名儀の株券などがまだ残っていた頃、それを売り払うのに、彼女は実印を桂介に預け放しだった。ところが、土蔵の件になって、鉄壁のように抵抗しだした。理屈ではなく、感情なのだ。
桂介も久子も、もう何も言えなかった。新築のことなど、夢のように消えた。
カヨは無言がちな日々を送り、風呂にも行かず、引っ籠ってばかりいたが、突然、深川の不動様にお詣りしてくると言って、出かけた。
だいたい、カヨの信仰は深いものではない。久子のお産の時、水天宮様のお札を受けてきたが、それは常識的な慣習にすぎない。神社仏閣にわざわざお詣りすることなど、昔は殆んどなかった。近頃になって、一乗寺に時たま出かけるが、仏道に帰依してるわけではない。写経に凝りだしたのも、特別な求道心からではない。すべて、外部的な形式的な支柱、そういった趣きがある。ただ、そのような支柱を必要とするほど、必死に縋りつこうとするものが内に在るらしい。内に在るそのものの邪魔になる場合には、逆に、写経の巻物など破り捨てるかも知れない。
深川の不動様も、それが目的ではなかったらしい。帰って来て、カヨは言った。
「久しぶりに、両国橋の上から、大川を見てきました。」
そして久子が初めて聞くような話をした。カヨの祖母にあたるひと、白木家の長命なお婆さんが、巣鴨のとげぬき地蔵様をたいへん信仰して、そのお札を一万枚、供養のため、両国橋の上から大川に流したことがある。お札には、地蔵様のお姿が捺印されている。捺印の版木と墨は家にあった。版木を一万枚おすのは大変なことだった。それを祈祷してもらって、大川に流したのである。その地蔵様の版木はどうなったか、いくら探しても見えないが、誰かお嫁に行く時にでも持って行ったのであろう。
そのような話をしたあとで、カヨはぽつりと言った。
「あすこから、わたしの実印を、大川に投げ込んできました。もう安心ですよ。」
嘘の気はみじんもない言葉の調子だった。不動様も、とげぬき地蔵様も、実印の一件に重みをつける役に立ったのである。それにしても、カヨはどんな風に印形を川に沈めたのであろうか。橋の上につっ立ち、手を振り上げて、投げ込んだか。または、欄干によりかかり、水の上を覗きこんで、ぽとりと落したか。たぶん後の方だろう。紫水晶の小さな印形だった。
そのことを、桂介は久子から聞いて、眉をひそめた。カヨになおただしてみると、カヨは何かを嘲けるように頷いた。
「誰がねらっても、この家だけはもう大丈夫です。」
それでもカヨは、白猫を抱いて日向ぼっこに表へ出ることは、少くなった。もう樹々の若芽も出かかっているのに、二階の薄暗い室に籠りがちなのである。
ところが或る日、彼女は炊事場をかきまわし、久子を呼んで、塩はこれきりかと尋ねた。小さな壜に少ししかはいっていない。久子は塩の壜を持ち出した。それで全部なのだ。家にありったけのその塩を、カヨは笊にあけ、黙って、裏の笹藪の方に出て行く。久子もついて行った。
小さな竹が粗らに立ってる藪のはじの、朽葉のなかに、蔓が二本はえている。足がひょろ長く、傘が薄く、大きく全体に黄色みを帯びている。季節外れの見馴れない蔓だ。その蔓を、カヨは下駄で踏みにじり、あたり近所に塩をふり撒き、笊まで裏返してぱっぱっとはたいた。ひどく不機嫌そうで、久子の方をじろりと見たが、何とも言わずに立ち去ってゆく。
久子はなにか不吉な感じを受け、意外なことを思い出した。カヨは時とすると、桂一にお噺をしてきかせる。短い昔噺だが、訳の分らないへんなのもある。
――むかし、或るところにお化屋敷があった。荒れはてた庭に、大きな蔓がいっぱい生えている。それが化物だった。化物退治に、力の強い人や武芸の秀でた人が、次々に出かけたが、庭にはいると、大きな蔓の傘におっかぶせられ、その傘がじわじわ縮まってきて、息絶えてしまう。
勝つ者が[#「 勝つ者が」は底本では「勝つ者が」]なかった。ところが、一人の智恵者があって、塩をたくさん持って出かけ、蔓の上にふりかけると、蔓はしぼんでしまう。そしてみごとに、蔓の化物を退治してしまった。
わきから聞きかじったその噺を、久子は思い出した。塩は何のまじないなのであろうか。不吉な上に嫌な気持ちだった。
カヨは手を洗って、独語のように言う。
「蔓が生えるようでは、この家もあぶなくなった。」
そして久子に、卵酒を拵えてくれと頼んだ。
カヨが昼間から酒を飲むことは、これまでになかった。特別なことで、草のせいなのであろう。
二階がいつまでもひっそりしているので、久子は階段をそっと昇って、覗いてみた。カヨは卵酒を飲んで、そのお盆を階段口に押しやり、机の上に写経の巻物をひろげ、その上に両手を置き顔を伏せて、眠っている。坐った姿は小さく、頬は白く、赤毛や白毛の髪が、少し乱れたまましんと静まっている。猫の姿は見えなかった。その猫を眼で探すことさえ久子は恐れ、お盆を持って階段を忍び降りた。
その晩、カヨは夕食に降りてきて食卓にはついたが、箸は取らなかった。蔓のことを久子から聞いていた桂介が、カヨの顔色をちらちら窺っていると、カヨは、家の壁を白く塗り直そうと言いだした。
「土蔵の壁のままでは、それも剥げ落ちてますからね、あまりみっともないですよ。あれでは蔓だって生えます。白く塗り直しましょう。」
独りできめて、独りでのみこんでいるのである。桂介はいい加減に聞いていた。反対がないので承知したものと、カヨは思ったらしく、何度もひとり頷いた。それから、食事の代りにも一度卵酒を飲みたいと言い、猫を抱いて二階に上った。
久子が卵酒を拵えて持ってゆくと、二階は新聞紙の紙屑だらけで、カヨと白猫と遊んでいる。カヨが紙つぶてを作り、投げてやると、猫はそれにじゃれつき、喰い破って、駆け廻る。その紙屑を、久子は拾おうとしたが、カヨはとめた。
久子がおりてくると、桂介は冷酒をコップで飲んでいた。家を白壁に塗り直すなんて、大変なことだろうと、久子は尋ねた。
「なあに、塗り直しはしないよ。ただ聞き流れしておけばいいんだ。」
彼はしばらく考えこんで、突然、顔を挙げて言った。
「母がいなかったら、母でなかったら、僕は、こんな土蔵なんか、ぶっ壊してやる。」
その顔を、久子は見つめ、それから急に、眼にいっぱい涙をためた。
二人ともそれきり黙りこんだ。二階では、白猫も遊び疲れたのか、何の物音もなく静まり返っている。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「思索」
1949(昭和24)年4月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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