して写経はしない。
人は写経をするようになると、或は写経を終えると、あとの寿命は長くない。そういう不吉なことを、久子はどこからか聞いてきた。桂介はそれを迷信だと笑ったが、カヨの生活状態を見ていると、いくらか気にかからないでもない。写経が遅々としてなかなか進捗しないのを、ひそかに窺って、二人は却って喜んでいる。
カヨの唯一の贅沢は、寝酒を飲むことだ。土蔵の中は冷えるし、風邪の予防に、というようなことから、いつしか毎晩の癖となってしまった。卵酒を一合五勺ほど、二階に持って上って、炬燵にはいり、ぼんやりなにか考えこみながら、または娯楽雑誌などを眺めながら、ゆっくり味って、それから寝床にはいるのである。ラジオは嫌いで、嘗て二階に桂介が取りつけてやったが、少しも聴かないので、一階に移してしまった。静かな環境を彼女は好きなのだ。
毎晩の卵酒には、桂介夫婦は経済的に困った。酒ばかりでなく、鷄卵と砂糖がいるので、それがつもると、桂介の収入では容易なことではない。だがカヨは、そんなことは殆んど顧慮しなかった。家計がつまってくると、株券でも物品でも、惜しみなく売り払わせた。食物の贅沢などは少しも言わず、何でも食べた。そして寝る前の卵酒だけが、その日その日の楽しみのようである。楽しみばかりでなく、昔の裕福な生活の名残りの夢のようでもある。
家に仔猫が一匹いる。というよりも寧ろ、カヨがそれを飼っている。彼女が十日に一度ぐらいお詣りする一乗寺の、隣りの家から、貰って来たのである。全身真白で、一本の色の差し毛もなく、眼は水色をしていて、短かめの尾の先端が少し太くなっている。その仔猫をカヨはたいへん可愛がり、子供達にもあまりいじらせず、いつも身辺で遊ばせ、夜は抱いて寝る。二階の隅に、糞便用の砂の箱を置き、それの掃除はいつも自分でする。猫もまたすっかり彼女になつき、彼女が外出する時は、犬のように後を追う。彼女が食べる物なら、たいてい食べる。菓子も食べるし、ほうれん草のうでたのも食べる。卵酒の中にとけてる卵のみも、酒の気をしぼってやれば食べる。
或る晩、二階で、猫がひどくあばれ騒ぐ音がし、それから、猫は階段に出て来て、駆け降りたり、駆け昇ったり、途中に止って身を隠したりした。気が狂ったようでもあり、楽しそうでもあった。カヨが追って来て、猫を抱き取った。
「静かになさい。なんですか、少しのお酒に酔ったりして。」
猫に卵酒を飲ましたのである。
猫の玩具には、ビー玉だの糸巻だのがあるが、新聞紙を小さく切って丸めたのが、いちばん倦きないらしい。その紙のつぶてを投げてやると、猫はあちこちへ転がし駆け廻って遊ぶ。紙のつぶてが隅っこへはいると、口でくわえて室の真中に持って来、なおしばらくじゃれて、それからつぶてを喰いやぶる。また新たな紙のつぶてを投げてやると、猫は同じようにして遊ぶ。しまいには、食いやぶられた新聞紙の破片が室中にちらかる。それをカヨは丹念に掃き清める。猫はもうくたぶれて、炬燵布団の上に寝てしまう。カヨは写経の神聖な仕事にかかるのである。
或る時、夜中に、二階で鐘の音がした。いつもより強く、数も多い。しかも夜中だ。久子は驚いて、寝間着の上に丹前をひっかけるなり、駆け昇っていった。カヨが仔猫を抱いて、寝床の上に坐っている。仔猫は二三日前から病気らしく、あまり物を食べず、泡みたいなものを吐いていた。それが、急に様子がおかしくなり、手足はもう冷たくなった、とカヨは言うのである。久子にはよく分らず、桂介も起きて来た。猫はぐったりしていた。ともかくも、奇猫散をのませた。
そういう騒ぎのあとで、猫は虫下しの薬をのみ、寄生虫が果して出たかどうかは分らないが、まもなく回復した。そしてカヨの肩にも駆け上るようになった。肩に乗るのが猫は好きで、彼女が坐っていても、立っていても、さっさと駆け上り、彼女が静かにしておれば、その後ろ襟の頸もとにうずくまって、眠ることさえある。カヨは髪を染めることをせず、もうだいぶ白毛も目立ってきたが、その赤らんだ半白の束髪のうしろに、真白な仔猫が乗っかってるさまは、いささか奇異な感じである。
「この頃、お母さんはなんだかへんですね。どうなすったんでしょう。」と久子は桂介に言った。
庭というほどの作りは何もない傍の空地には、大きな石灯籠が一つあり、大きな庭石が幾つも残っている。春先のことで、暖い日など、カヨはそこに出て、石の上に腰をおろし、日向ぼっこをしながら、じっと思いに沈んでることがある。肩には仔猫が乗っている。猫はその辺を駆け廻ろうともせず、彼女の肩に乗っかったまま、やはり日向ぼっこをしながら、時に頭を動かして、あちこち眺め渡している。カヨと猫は一体で、カヨは物を考え、猫は物を探索してるかのようだ。
怪しいことがある、とカヨは言いだしていた。耳がおかしいと言いだした、その後のことである。耳の方は、夜中に時計の音がいつも一つしか聞こえなくとも、それは錯覚としてもよく、裏の笹藪のかすかな音まで聞こえるとしても、それも錯覚としてもよかった。だが、耳についで、眼もおかしくなった。
二階の窓には、鉄格子の内側に、新たに硝子戸が取り付けてある。その硝子戸の外から、誰かが室の中をじっと覗いてることがあるのだ。はっとして、注意をこらすと、その怪しい人影は消えてしまい、あとには、こちらの姿がぼんやり映ってるだけである。その自分の姿に邪魔されて、怪しい人影の正体は一層見極めにくい。
それはただ気のせいで、錯覚にすぎない、と桂介は考えたい。
「いいえ、そればかりじゃありません。」とカヨは言う。
夕方など、表の薄暗いところから、誰かがじっと家の中を覗いているのを、確かに彼女は見たのである。炊事場などは、更に怪しいことが多かった。
土蔵の内部を改造して住居にしたとはいえ、それだけでは、どうにもならなかった。横手の壁をくりぬき、小さな潜り戸をつけ、その外にくっつけて炊事場や物置や便所を作った。トタン屋根の簡単な造作である。盗人の用心のため、潜り戸は厳重にし、炊事場には大事な物は一切置かないことになっている。そこには硝子戸が多い。その硝子戸に、しばしば人影がさすのである。勿論、夕方から夜にかけてのことだ。こちらの姿はいつもぼんやりしか映らないが、怪しい人影は、ちょっとの間のことで而も極めてくっきりと見える。
やはり錯覚だ、と桂介は判断した。闇に限らずすべて薄暗いものを背景とすれば、硝子は光りの工合で鏡の役目をする。僅かな視角の差で、鮮明にも映れば朦朧にも映る。その映像は甚だ不安定だ。カヨは恐らく、自分の不安定な映像を、或る瞬間に異物と感ずるのであろう。そして驚いた身振りのために、視角が変って、映像はすっかり消え失せることもあろうし、自分の映像だと認知されるものだけが残ることもあろう。
勤務先の会社や、自宅で、桂介は硝子に自分の姿を映してみた。鮮明度はさまざまで、全身がくっきり浮き出すこともあれば、ただぼんやりした薄ら影がさすこともある。顔だけのこともあり、額だけのこともあり、手だけのこともある。その不安定な映像、往々にして寸断された映像を、面白半分に弄んでいるうちに、彼はなにか不気味な気持ちになってきた。怪しいものが身内に浸みこんでくるような厭らしさだ。彼は母に言った。
「そんなつまらないものに気を取られていると、こちらの影が薄くなりますよ。」
「そうですよ。影が薄くなってきました。耳もおかしいし、眼もおかしいし……。」
カヨは何のつもりか、頭を振った。
実のところ、なんだかへんなのである。久子が注意していると、カヨは猫を抱いて外に出ることが多くなった。春先の暖気のせいばかりではなさそうだ。石に腰かけて、彼女は物を考え、猫は物を探索している。
カヨはまだ腰が曲ったというほどではないが、めっきり背が低くなったようである。だいたいが小柄である。肉附きはいい加減で、下脹れの頬の肉はたるんでいる。いつも着附けが正しく、だらしない様子を見せることはない。もう顔にお化粧はしないが、色白の滑らかな皮膚である。その、見たところ上品な小さな彼女と、肩に乗っかってる白猫と両者をよくよく眺めると、なんだかへんで、怪しいのだ。彼女が読経は殆んどせず、写経にばかり凝ってることを、久子はやはり怪しく思い起した。
土蔵の二階などに籠りがちな生活が、カヨのためによくないのではあるまいかと、桂介と久子は話し合った。然し、その対策はもう出来ている。家屋を新築することだ。
家屋新築は、資金の点から見ても容易でなかった。ところが、亡父正秋の知友で、衆議院議員になってる木村又太郎から、耳よりの話があった。木村自身からというよりも、夫人の美津子からの話である。邸宅新築のために材木を買い入れておいたところ、建築法令に抵触して、予定通りの家屋を建てることは危険となり、だいぶ材木が余った。二三室の家屋を建てるには充分の量である。土蔵住いでは御老母にも気の毒だし、思い切って新築しないか、そういう話なのである。大工などもこちらから差向けてよろしいとのこと。材木代や工賃などは、すぐに頂けないとすれば、証書を入れておいて貰いたいと、それだけの条件である。
桂介と久子は相談の上、新築の決心をした。桂介が勤めてる会社は、陶器工業の本社で、将来発展の見込みは充分ある。いずれ金の融通ぐらいは出来るだろう。一時、木村から借りておくのだ。ただ問題は、母カヨを説得することだった。
土蔵のカヨの生活は、どこから見てもよろしくない。子供達にも土蔵はよろしくないようだ。なんだか暗い影がさすのである。新築の明るいところへ移ったら、カヨの気分も違ってくるだろう。たとい二室ほどでもよい。一室をカヨの居室にし、一室を子供達の居室にする。
カヨは子供を嫌いではない。二階で遊ぶことは禁じているが、靴下の繕いは一手に引き受けている。桂一が感冒で熱を出した時には、いろいろと面倒をみてやり、夜中にも数回、二階から降りて来るのだった。足音を盗んでまで階段を降りて来た。久子がふと眼をさますと、桂一の枕頭にカヨが木像のように坐っていた。二燭光の電球に更に覆いをした薄暗いなかに、半白の髪の頭を傾け、仄白い顔を冷たくして、桂一の寝息をじっと窺っている。久子はまだすっかり覚めきらぬ心地のなかで、ぞっと冷水をあびた思いがして、飛び上るように身を起した。
「静かに。」とカヨは振り向きもせずに手で制した。「このぶんなら、じきになおりますよ。」
カヨは足音を盗んで階段を昇っていった。
そのようなことが、久子には夢かとも疑われた。気持よい夢ではなく、悪夢のような感じだった。土蔵の雰囲気のせいなのであろうか。然し桂一の病気は、予言通り間もなくなおった。
新築について、カヨを説得しなければならない。これが困難だった。耳の錯覚とか、眼の錯覚とか、土蔵の雰囲気とか、戦争についての謬見とか、そんなことでは、彼女にとっては理由になりそうにない。考えあぐんだ末、桂介はよいことを思いついた。白壁造りの家にするのだ。縁側や雨戸は見遁して貰う。だいたい三方とも、羽目板ではなく白壁にする。それなら土蔵と大した変りはない。たとい火災があったとて、まあ大丈夫だろう。建築費の点も、僅かな坪数だから、大したこともあるまいし、そのようなことをとやかく言うカヨではない。
白壁造りの家のことを、桂介がぽつりぽつり匂わせると、カヨは次第に乗り気になってきた。
「そのような家は、今はなくなったけれど、昔はよくありましたよ。」
而も、由緒ある旧家に多かったのだ。カヨは白壁造りに賛成した。白壁造りに賛成したことは、つまり新築に賛成したことである。それでもやはり、彼女は白猫を抱いて何やら考えこんでいる。彼女の顔を見ても、猫の顔を見ても、何を考えてるのかさっぱり分らない。
美津子夫人は、白壁造りの話を聞いて、呆れたように眼を丸くした。
「まあ、今じぶん、なんて考えでしょう。」
彼女は自らカヨを訪れて来た。
客まで一切、二階の室には通さないのである。二人は一階
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