婆さんが、巣鴨のとげぬき地蔵様をたいへん信仰して、そのお札を一万枚、供養のため、両国橋の上から大川に流したことがある。お札には、地蔵様のお姿が捺印されている。捺印の版木と墨は家にあった。版木を一万枚おすのは大変なことだった。それを祈祷してもらって、大川に流したのである。その地蔵様の版木はどうなったか、いくら探しても見えないが、誰かお嫁に行く時にでも持って行ったのであろう。
 そのような話をしたあとで、カヨはぽつりと言った。
「あすこから、わたしの実印を、大川に投げ込んできました。もう安心ですよ。」
 嘘の気はみじんもない言葉の調子だった。不動様も、とげぬき地蔵様も、実印の一件に重みをつける役に立ったのである。それにしても、カヨはどんな風に印形を川に沈めたのであろうか。橋の上につっ立ち、手を振り上げて、投げ込んだか。または、欄干によりかかり、水の上を覗きこんで、ぽとりと落したか。たぶん後の方だろう。紫水晶の小さな印形だった。
 そのことを、桂介は久子から聞いて、眉をひそめた。カヨになおただしてみると、カヨは何かを嘲けるように頷いた。
「誰がねらっても、この家だけはもう大丈夫です。」
 そ
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