恐れ、お盆を持って階段を忍び降りた。
その晩、カヨは夕食に降りてきて食卓にはついたが、箸は取らなかった。蔓のことを久子から聞いていた桂介が、カヨの顔色をちらちら窺っていると、カヨは、家の壁を白く塗り直そうと言いだした。
「土蔵の壁のままでは、それも剥げ落ちてますからね、あまりみっともないですよ。あれでは蔓だって生えます。白く塗り直しましょう。」
独りできめて、独りでのみこんでいるのである。桂介はいい加減に聞いていた。反対がないので承知したものと、カヨは思ったらしく、何度もひとり頷いた。それから、食事の代りにも一度卵酒を飲みたいと言い、猫を抱いて二階に上った。
久子が卵酒を拵えて持ってゆくと、二階は新聞紙の紙屑だらけで、カヨと白猫と遊んでいる。カヨが紙つぶてを作り、投げてやると、猫はそれにじゃれつき、喰い破って、駆け廻る。その紙屑を、久子は拾おうとしたが、カヨはとめた。
久子がおりてくると、桂介は冷酒をコップで飲んでいた。家を白壁に塗り直すなんて、大変なことだろうと、久子は尋ねた。
「なあに、塗り直しはしないよ。ただ聞き流れしておけばいいんだ。」
彼はしばらく考えこんで、突然、顔を挙げて言った。
「母がいなかったら、母でなかったら、僕は、こんな土蔵なんか、ぶっ壊してやる。」
その顔を、久子は見つめ、それから急に、眼にいっぱい涙をためた。
二人ともそれきり黙りこんだ。二階では、白猫も遊び疲れたのか、何の物音もなく静まり返っている。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「思索」
1949(昭和24)年4月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
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