ろが、土蔵の件になって、鉄壁のように抵抗しだした。理屈ではなく、感情なのだ。
桂介も久子も、もう何も言えなかった。新築のことなど、夢のように消えた。
カヨは無言がちな日々を送り、風呂にも行かず、引っ籠ってばかりいたが、突然、深川の不動様にお詣りしてくると言って、出かけた。
だいたい、カヨの信仰は深いものではない。久子のお産の時、水天宮様のお札を受けてきたが、それは常識的な慣習にすぎない。神社仏閣にわざわざお詣りすることなど、昔は殆んどなかった。近頃になって、一乗寺に時たま出かけるが、仏道に帰依してるわけではない。写経に凝りだしたのも、特別な求道心からではない。すべて、外部的な形式的な支柱、そういった趣きがある。ただ、そのような支柱を必要とするほど、必死に縋りつこうとするものが内に在るらしい。内に在るそのものの邪魔になる場合には、逆に、写経の巻物など破り捨てるかも知れない。
深川の不動様も、それが目的ではなかったらしい。帰って来て、カヨは言った。
「久しぶりに、両国橋の上から、大川を見てきました。」
そして久子が初めて聞くような話をした。カヨの祖母にあたるひと、白木家の長命なお婆さんが、巣鴨のとげぬき地蔵様をたいへん信仰して、そのお札を一万枚、供養のため、両国橋の上から大川に流したことがある。お札には、地蔵様のお姿が捺印されている。捺印の版木と墨は家にあった。版木を一万枚おすのは大変なことだった。それを祈祷してもらって、大川に流したのである。その地蔵様の版木はどうなったか、いくら探しても見えないが、誰かお嫁に行く時にでも持って行ったのであろう。
そのような話をしたあとで、カヨはぽつりと言った。
「あすこから、わたしの実印を、大川に投げ込んできました。もう安心ですよ。」
嘘の気はみじんもない言葉の調子だった。不動様も、とげぬき地蔵様も、実印の一件に重みをつける役に立ったのである。それにしても、カヨはどんな風に印形を川に沈めたのであろうか。橋の上につっ立ち、手を振り上げて、投げ込んだか。または、欄干によりかかり、水の上を覗きこんで、ぽとりと落したか。たぶん後の方だろう。紫水晶の小さな印形だった。
そのことを、桂介は久子から聞いて、眉をひそめた。カヨになおただしてみると、カヨは何かを嘲けるように頷いた。
「誰がねらっても、この家だけはもう大丈夫です。」
そ
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