子のところに、母とN叔父さんの話声がしていた。
「少し落着いたら、縁談の方も、なんとかまとめましょうや。」
「でも、すぐにどうというわけにはまいりませんでしょう。」
「だから、まあ約束だけでもね。」
「なにしろ、あのような我儘者ですから、わたくしとしましても、早く身を堅めてほしいと思っております。宅ともよく相談してみましょう。」
「わたしからも話してみますよ。」
そして二人は向うへ立って行った。
兄の縁談のことだった。それは、祖母が寝つく頃からあった話のうちの一つで、私もうすうす聞いていた。でも、今、そのことが持ち出され、それを立聞きなどしたことに、私は不愉快だった。
広間では、飲み食いと談笑とが賑かに続いていた。仏間との間の襖はすっかり開け放してあった。廊下にはいろんな物がごたごた並んでいたので、私は広間の横手から仏間へはいって行った。幾人かの視線を、そして兄と利光さんの視線をも、身に感じたが、怯みはしなかった。
仏前に坐って、私はすっかり落着いた気分になった。蝋燭もお線香も燃えつきていた。私は新らしい蝋燭をともし、お線香を何本も立てた。
その時、私は祖母の白衣のことを思い起した。祖母が息を引き取り、その体がすっかり拭き清められると、羽二重の白無垢に着換えさせられた。その羽二重の白無垢を、私は前に一度も聞いたこともなければ見たこともなかった。へんに唐突なそして意外な感じだった。その衣は、いつ拵えられ、どこにしまわれていたのであろうか。
白布に包まれてる遺骨の箱を見ながら、私はやたらに幾本もお線香を立てた。
火葬とそれからお骨上げは、痛々しい感じだったが、直後に、清浄な感じに変った。墓窟へのお納骨は、陰欝な感じで、あとは寒々とした感じが残った。
帰りの自動車の中で、A叔母さんは私の手を握って囁いた。
「お祖母さまの笑顔とやら、どうだったの。見えなかったでしょう。見えなくていいのよ。もうそんなこと忘れておしまいなさい。これからがほんとに淋しくなるんだけれど、あなたも気持ちでは独り立ちしなければならないから、しっかりするんですよ。お父さまやお母さまもいらっしゃるけれど、なにか気が滅入るような時には、叔母さんところにも遊びにいらっしゃいね。」
私は深く頷いたが、叔母さんの手を強く握り返す力はなかった。
家の中は、歯がぬけたような淋しい感じだった。夕食の時、父と兄は、いつまでも食卓を離れないで酒を飲んだ。私は自分の室に引っ込んで、改めてまたいろいろな物を片附け整理した。
博多人形の、手毬のところが欠けた跡が、白く生々しかった。そこが見えないような向きに人形を置いた。けれど、窓の磨硝子の戸は私の方を向いていて、今にも、そこに何かがちらちら映りそうだった。祖母のにこにこした顔は、もうどこか遠いところにあった。のっぺらぽうの顔も、もうすっかり薄らいでいた。私自身の影にも、私はもう驚かないだろう。だが、ほかに、何か怖いものがあった。うっかりしてる隙間に、その影が硝子戸に映りそうだった。
私は早めに寝た。明日からのことに思いを集注して、あれこれ空想しているうちに、妖しい妄想の中にはいり込んだ。
いやに犬が鳴いた。うちの犬は、夜は解き放しになっていたが、それが庭を歩き廻って鳴いた。塀の外でも、よその犬が鳴き、なおあちこちの犬が鳴いた。怪しいものが来てるようでもあった。犬は低くうーと唸ったり、また声高く吠えたりした。一時すっかり鳴き止んで、静かになったが、暫くすると、また鳴きだした。それから、ひっそりとなってしまった。
しいんとした中で、雨戸にことりと音がした。時を置いて、何度も音がした。風もないのに、どうしたのだろう。一つ所ではなく、あちこちで、雨戸にことりと音がした。それからまた、犬が吠えだした。
私は二ワットの小さな電球をつけて寝ていたが、その光りが妙に明る過ぎた。不用心な気がして、電燈を消した。真暗になった。
瞼のうちに、祖母のことが浮んできた。元気だった時の姿は少しも浮ばず、羽二重の白無垢を着せられてる寝姿だけだった。白木綿の顔覆いを取ってみると、白髪に縁取られてる顔は、鼻だけがつんと高くて、細そりと引き緊り、それが蝋細工のようで、更に、眼に見えないほど薄い紗か何かで被われてる感じだった。体も手足も薄っぺらで、蒲団の厚みの中に埋もれきって、そこに人が寝てるとは見えなかった。
それだけ覚えていて、あとはうとうと眠ったらしい。そして朝早く眼をさました。
起き上って窓の雨戸を開くと、朝日の光りが空に流れていた。室内を見廻したが、どこにも異状はなかった。ただ不思議なのは、博多人形の生々しい欠け跡のところが、こちら側に向いていた。
私は洗面所へ行って、急いで顔を洗った。女中が茶の間の掃除をしていた。私は室に戻って、顔にクリームを塗り、髪を整えた。女中が縁側の雨戸を開けるのを待って、手毬のところが欠けてる人形を持ち、庭に出た。幾つかある庭石の、一つを選んで、それに人形を力一杯ぶっつけてやった。人形は、小さく砕けた。私は塵取を持って来て、人形の破片を拾い集めた。それから、一昨日投げ捨てたままの、人形の毛毬を探したが、見付からなかった。どこにも見付からなかった。
母が、寝間着姿で、縁側に立っていた。
「そんなところで、何をしているんですか。」
「博多人形が一つ、壊れたから、小さく壊してやりましたの。」
母は妙な顔をして、私を見ていた。私は塵取を持っていって、拾い集めた破片を見せた。
「真白な土ね。」
「手毬のところだけ、どうしても見付からないの。」
「何の手毬……。」
「あら、人形のよ。」
「そう。でも、手毬なら、どこかへ転がっていったと思えばいいでしょう。」
「ほんとに転がっていったのかしら。」
「きっとそうですよ。」
「そんなら、探すの止めよう。」
私は縁側に腰掛けて、足をぶらぶらさした。
「お母さま、昨夜よく眠れましたか。」
「ええ、よく眠りましたよ。」
「犬がたいへん吠えましたでしょう。」
「そうね。」
「それから、雨戸にあちこち、ことりことりと音がしましたでしょう。」
「そうね。」
「どうしたんでしょう。」
「何かがいたんでしょうよ。」
「怖かったわ。」
「怖がることはありません。何かがいなくなったのかも知れないから。」
「いなくなったのなら、犬がどうして吠えますの。」
「探していたんでしょう。」
「探して吠えたのかしら。」
「きっとそうですよ。」
「でも、雨戸は、へんよ。」
「それだって、淋しかったんでしょう。」
「あら、お母さまいい加減のことばっかり。雨戸が淋しがるなんて……。」
母は私の顔を見て、頬笑んだ。
「美佐子さんだって、淋しがることがあるでしょう。」
「いいえ、ないわ。」
「ほんとに。」
「ええ。」
「今でも。」
「ええ。」
「そんなら安心ですよ。A叔母さまが仰言ったよ、美佐子さんが淋しがったら、一緒に少し遊んでやりなさいって。一緒に遊んでやりなさい、ねえ、おかしいでしょう。」
「あたし、淋しがりなんかしないわ。」
「だって、人形を壊したりして……。」
「壊れてたんですもの。」
「そんなら、捨てていらっしゃいよ。」
私は縁側から降りて、塵取を取り上げ、裏口の方へ行った。母と交わした対話が、謎のようだった。どうしてあんな対話になったのだろう。私もどうかしていたのかも知れないが、母もどうかしていたのかも知れなかった。
美しい朝日の光りに向って、私は深呼吸をした。
家の中に戻って、私は熱いお茶を飲み、それから仏間へ行った。雨戸を開けると、眼がさめるように明るくなった。仏壇はきれいに片附いていて、百合の花が匂っていた。私はその前に坐って、お燈明とお線香をあげた。祖母の遺骨が無くなってるのも、今では、却って清々しかった。私は掌を合せ、長い間頭を垂れていた。そして立ち上り、そこから出て行こうとして、ふと、母や父や兄と顔を合せるのが、ちょっと極り悪いような気がした。そんな思いは初めてだった。祖母が亡くなったからだったろうか。そればかりでなく、私がいくらかしっかりしてきたからだったろう。でも、そのことに自信はなかった。私はもう一度仏壇の前に引き返して、お線香をあげた。
底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]・戯曲)」未来社
1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「小説公園」
1952(昭和27)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年2月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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