ったとたんに、娘は地面に倒れたが、馬はまるで影か霧のように、すーっと通りすぎていった。
 こんな話、おれには何のことかよく分らなかった。お伽話でもないし、お化け話でもないし、いささかばからしくも思えた。北川さんもその当座、おれの批評など求めはしなかった。――それが、実は、病人の頭から醸し出されたものだったんだ。
 北川さんはまだ独身で、家庭には、年とった母と若い妹がいた。病人というのは妹のことで、その姿をおれが見たのは事件が起ってからのことだ。
 おれはただ生魚を時々持っていった。おれは魚屋じゃない。戦災で親たちが田舎へ引き込んだあと、一人東京に残って、まあ謂わば植木屋の手伝いみたいなことをしていた。忙しい仕事もめったにないし、あちこちに手蔓があるものだから、物品の仲立ちも少しはやった。大人でなくて小僧っ子なもんだから、却って便利がられた。けちな仕事だが、金は相当にもうかった。
 ところで北川さん……はっきり言えば北川辰治は、ちょっと文学者めいたところのある人だが、それでいて少しも気むずかしくはなく、至極のんびりしていた。どうして中学校の先生なんかしているのか分らなかったが、外になにもすることがなかったからだろう。貧乏なのか金持ちなのか見当がつかなかった。十円札一枚もないこともあれば、新らしい百円札をたくさん持ってることもあった。
 おれが識り合ったのは一月の半ばで、それからずっと寒い日が続いた。梅の花の咲くのが後れた。そして三月になった或る日のこと、へんなことが起った。春先のせいかな。
 おれはいつものように、生魚を少し北川さんへ届けた。裏口からはいって、台所へ声をかけたが、返事がない。なんども呼んでいると、庭の方から北川さんがやって来た。作業服みたいな姿で、地下足袋をはいている。
「ああ、君か。よく来たね。」
 おかしな挨拶だが、その訳はすぐに分った。北川さんは魚をしまってから言った。
「今、君は暇かい。」
「なんか用ですか。」
「よかったら、ちょっと手伝って貰いたいんだが……。」
 梅の木を植える手伝いだった。物置小屋を廻ってゆくと、鍵の手になってる建物が、わりに広い庭をかかえている。庭師の手にかけた庭ではないが、百日紅や野薔薇や八手や檜葉や椿などが、広場の向うを限っている。その片端のところに、穴が掘りかけてあり、大きな梅の木が塀に立てかけてあった。背は低いが
前へ 次へ
全11ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング