も、少し変ってきた。やはりあけすけではあったが、その呑気者の彼女が、奥さん然と「勿体ぶって澄しこんで」いた。嬉しいのか困ってるのか、さっぱり要領を得なかったが、なんとなく「しっかりしたところ」が出てきた。
そして二人は、いやに「しんみり」してるというだけで、他の者には訳が分らなかった。繁々逢っていたが、仲はさはど「濃く」もなさそうだった。さほど嬉しそうもない逢い方で、さほど名残惜しそうもない別れ方だった。
岡野は泊っていくことはめったになかった。酒にも余り酔わなかった。けれど吉乃の方が、それこそ「ほんとに不思議に、思いがけなく、」酔っ払うことがあった。そしてそんな時、なぜともなく、「可哀そう」な気がするのだった……。
其他のことは、女中にも分らなかった。
岡野の好きな奥の階下の六畳というのは、昼間は薄暗くて、窖《あなぐら》のような感じだったが、小さな池に寒山竹と南天をあしらった、狭い二坪か三坪の中庭に臨んで、一寸した濡縁がついていた。
笹の葉のそよぎに、二人は黙って聴き入ることがよくあった。
聴きようで、哀切にも響く、無常にも響く、楽しくも響く……。岡野は涙ぐんだ眼付で、吉乃のなごやかな姿を眺めている。許してくれ! そんな声が胸の底から起ってくる。……許してくれ! 僕は汚れてるんだ。汚れた身体を、君のところへ運んできた。やはり、淋しかったんだ。たまらなく惨めだったんだ。君の側で、心から憎んでやる、呪ってやる、あの女を、澄代を……。この気持、君には分らないんだ。つまりは同じだと! 嘘だ、嘘だ。××××と××××と……理窟はそうでも、それが、ちがうんだ。僕のこの惨めな気持は、どこから来るんだ。完全な取引になっていないからだ。商売になっていないからだ。生活の形式になっていないからだ。そんなら、止めろと云うだろう。ああ、どんなにか、さっぱりと……。あの、爛れた愛慾、腐った愛撫……。それが、僕をふみにじりながら、惹きつけるというのか。そんなことはない、断じてない。僕は誓う。ただ、君に逢えさえすれば……。そして君に逢うためには、僕の身分では、彼女から金を引出すより外仕方がない。ああ、呪われてあれ! 僕自身も呪われてあれ! ただ、信じてくれ、僕の心だけは……。僕は誓う、何を指してでも誓う。どうしたらいいんだ、どうしたら……。
その気持、吉乃にもぼんやり通じていた。そして彼女には、彼が心の中でどんなに悩んでるか、よく分っていた、けれど、彼のその誓が、背教者の涙と同じように、一時的なものだということも、また分っていた。そしておかしなことには彼自身も、自分のその誓が、若いロマンチックなものだということを、知っていた。それでいて、どうにもならなかった。感情の潮が引いて、おのずから出来る空虚な瞬間、彼は彼女を、敬虔な信頼の眼で眺めた。彼女は彼を、愛に似た憐憫の眼で眺めた。
さらさらと、笹の葉の音がすると、寒い……。
岡野はしきりに杯を重ねたが、酒の落着き工合が悪くて、酔わなかった。
「君は……、」口籠って、おずおずとした眼付で、「君は、いつまでこんなことをしていて……。」
「でも、呑気《のんき》でいいのよ。」
上の空の調子で受けて、急に、彼女は真面目になった。
「そのうちに、看板を借りようと思ってるのよ。」
そして、丸抱えで出てるのと自前で出るのとの違いを、商売の自由さの点や、収入の関係など、こまかな数字まで交えて、話しだした。
「それまでには、あなたこそ、あっちの方、早くきりをおつけなさいな。」
「きりをつけたら、どうする……。」
「どうもしないけれど……苦しまないだけでも、いいじゃないの。」
「…………」
彼の身内が震えるのが、彼女の眼にもついた。だが、彼女は踏みこたえた。そして踏みこたえる努力に、自分でもびっくりした。
「きりをつけるよ。立派につけてみせる。」と岡野は云っていた。「僕はそれを誓う。それだけが、僕自身を救う道だ。そして、本当に君に近寄ることになるんだから……。たとい……。」
「いいのよ、もう、そんなこと……。その話、よすの。」
彼の言葉を押っ被せると、彼女は我知らず涙ぐんでいた。その下から、彼は云い張っていた。
「いやだ、何もかも云ってしまわないうちは、いやだ。……。あんな女……のこと、僕は何とも思ってやしない。あんな女……いや、それよりか、君だって、君をだって、僕は愛してるかどうか、自分にも分らない。……ただ、泥の中から、救われたかったんだ。そして君に逢うと、僕の気持は、晴ればれとしてきた、明るくなった。それを、どう云って感謝していいか、分らない。ただ、有難い。僕を救ってくれ。僕は君を愛してやしないかも知れない。君も、僕を愛してやしないだろう。それでもいい。ただ、すがすがしい気持になれば。その外のことは、許してくれ……。」
胸の中に熱いものがたまってくるのを、吉乃は押えつけた。商売が立前なんだ。何かが壊るれば、凡てが崩れ落ちそうだった。そんな脆いんじゃないと思っても、不安だった。無意識的に踏みしめてきた商売の道、それが、岡野との関係で、はっきりしかけてきた今となって……。
彼女の眼付は、いつになく厳粛になった。そして彼女は酒を飲んだ。敵意的に飲んだ。岡野が泣き出しそうな顔をしているのが、おかしかった。
岡野は、両手で頭をかかえた。
「僕、僕はほんとに誓うよ。……その証拠には、こんど、彼女を、澄代を引張ってきてみせる。」
「どこに。」
「ここに。」
「ばか、ばかな、あなたは、ばかねお坊ちゃん……。」
もう彼女は、酔っていた。泣いてるのか笑ってるのか、自分でも分らなかった。
三
元来の呑気なおおまかな性質が、却って心棒となって、それに達者な八重次の助けもあり、時間も短かかったので、吉乃はわりに楽だった。何よりも「青柳《あおやぎ》」の家でないのがよかった。
それでも、調子は初めから狂っていた。
眼窩のくぼみが感ぜらるる、大きな、ひどく敏活な眼付。それから喉を使わないなめらかな声音で、「こんばんは、」と低く、次に調子よく、「前から、あなたのことはきいていて、逢いたいと思っていました。」――その二つが、ずっしりと胸にきて、吉乃《よしの》は黙ってお辞儀をした。そしてさすがにぎごちなく、それを、そのまま押し通して落付いてしまった。
色古浜の着物、綴錦《つづれにしき》の帯、目立たない派手好みに、帯留の孔雀石の青緑色が、しっくり付いていた。三十五六の、きゃしゃな美貌で、見ようによって、ひどく色っぽくも皮肉にもなる眼付――それに一抹の疲れが見えるのは、眼窩のくぼみのせいらしい。そして何のこだわりもなさそうに、ひそかに吉乃の様子を窺うでもなく、程よく席につかして、八重次に三味線を持たして、自分も低くそれにつけた。
「やっぱり、岸の柳とか、菖蒲浴衣《あやめゆかた》とか。ああいった軽いものの方がいいわね。わたしもともと、吉住の方だけれど……。というと、大層出来そうだけれど……ほほほ。」
そして澄代と八重次とだけで、座をもち続けてくれた。
「こちらも、何か聴かして頂戴よ。」
そう云われても吉乃は、好意のある八重次の視線に縋って、明るく笑っただけで済した。
三味線を置いて、世間話になると、岡野もそれに加わったので、吉乃はなお気持が隙《ひま》になった。
澄代は酒も少しは飲めた。
「吉乃さん、こんど、隙な時、わたしの家へも遊びに来て下さいよ。わたし、各方面からのいろいろなお客が、一番楽しみなんだから……。家では、すっかり、門戸開放主義なの。その代り、御馳走はありませんよ。栄太楼のうめぼしくらいなら……。」
吉乃ははっとした。彼女はその「うめぼし」が好きで、家でよくしゃぶっていた……。岡野に話したことがあったらしい。疑念の眼付で、岡野の方を見ると、彼は煙草をそっぽに吹かしていた。
「主義はおかしい……。あんなに泥坊を怖がっていて……。」
「いやあね、泥坊は別よ。それと雷……。」
震《ちじ》み上った様子をして、彼女は吉乃の肩に手をかけていた。
「ねえ八重次さん、わたしこんな妹があったらいいと思うわ。似合うでしょう。わたしも背が高い方だし、このひと、おとなしいし、好きよ。」
「あら、そんならあたしは……。こちらの、妹御さん……。おかしいわ……。」
岡野の方を覗きこむ風をして、八重次は吉乃にやさしい視線を送った。
吉乃は澄代の手の下に、首を縮めていた。地位が逆に、こちらが初めからお客のような、座敷の空気ばかりでなく、いやそんなものをすっかり蹴散らして、絡みつくようなしなやかな澄代の手の感触が、彼女の自意識を呼びさます。先程からただ本能的に見て取っていたものが、表面に浮出してくる。……澄代の、袖口を持ちそえて掌《て》を胸に押しあてる嬌姿、自由にしないそうな綺麗な指、頸筋の荒れた皮膚、瞬間に燃え立ったり消えたりする、而も押しの強いその眼差《まなざし》、そしてその底の、疲れのこもった色っぽさ、それから、岡野の、そしらぬ顔をしてやたらに煙草を吹かしながら、澄代の挙動の一つ一つに、魅せられたように惹きつけられてる視線……。
違っていた! 殆んど咄嗟に、本能的なのを意識的にまで、吉乃はそれを感じた。岡野の云うのが本当だ。商売なんかとは、まるで違う。別な、自分の知らない、愛慾の世界だ。清い取引ではない。汚らわしい。一寸した飛沫でも、身体が汚《けが》れる……。
彼女はぞっとして、澄代の手の下から身を引いた。
「わたしが男だったら、こんなひと、どうしようかしら……。」
鋭い火花が、瞬間、岡野の方へ投げられて、あとはさりげなく、酔をかぶった眼付で、彼女は吉乃の方へ寄ってきた。
「逃げてはいやよ。きょうだいだから、ねえ。」そして杯を二つ並べて、「あちらは喧嘩だから、こちらは仲よく……。」
けんで杯のやりとりをしている八重次と岡野の方へ、笑いを送って、自分で銚子を取上げた。
「あら……。」
八重次が急いで手を出そうとするのを、澄代は遮った。
「だめ、だめよ。他人禁制……二人きりで、内緒の話があるの、ねえ。」
吉乃は、妙に横柄な眼付と微笑の口許とで、うなずいて、杯を干した。そして此度は自分で、二つの杯に酒をつぎながら、じっと、明らさまに岡野の方を眺めやった。寝ころんで、何かに打ちのめされたような彼の姿が、ほんとに惨めに見えた。ばか、ばかな人! そう叫んでやりたかった。
が彼女の耳には、澄代の暖い息がかかっていた。
「こんど、一人でゆっくり来るわ、ねえ。」
彼女は夢のようにそれを聞いていた。
「そして……。」
彼女は動かなかった。白々とした額が、石のように冷くなった。その頬辺《ほほべ》を、澄代は指先でつっついた。それから、煙草の吸いさしを、だがさすが用心して火は消して……。
吉乃は飛び上った。頬辺を押えて、いきなり室から出て行った。水で頬辺を冷しに行った。だが、何のこともなかった。念入りに化粧を直して、戻ってきた。
皆の視線が彼女を迎えた。その交錯《こうさく》した十字火の中に、彼女は微笑んではいっていった。矜持! そういった気持が動いた。自分の商品の価値を知ってる商人の誇だ。誰が何と云おうと、誰と取引しようと、清らかな美しい肉体が。躓《つまず》かないでよかった。よく持ちこたえた。けだもの、畜生! そういう叫びを胸の底にひそめて、彼女は、のびのびと首をそらして、善良そうに微笑んでいた。
「いやーね。」八重次が彼女の背を叩いた。「あたしの方がびっくりしちゃったわよ。」
澄代の眼が情熱的に光っていた。岡野は眼を外《そ》らした。
「御免なさい。」
誰にともなくそう云って、吉乃は晴れやかに笑った。
底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「改造」
1929(昭和4)年12月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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