操守
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)吉乃《よしの》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23]
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一
吉乃《よしの》は、いつものんきで明るかった。だから或る男たちは、彼女をつまらないと云った。のんきで明るいだけなら、人形と同じだ。人形を相手に遊ぶのは、子供か老人――ロマンチックな初心者か、すれっからしの不能者か……。だが普通の者にとっては、酒の後では、煙草の味が一層うまいように、何かしら、賑かさが、淋しさが、色っぽさが、あくどさが、媚が、邪慳が、或は……兎に角刺戟が、嬉しいものだ。そこを吉乃は、明るくにこついているばかりで、技巧を弄することもなく、あけっぱなしでのんきで、別に面白そうでもなく、また不愉快そうでもない。だから相手も、面白くもなく、不愉快でもない。それでいて、彼女は相当に流行妓《うれっこ》だった。
宿酔《ふつかよい》の頭の中は、霧の夜の風景だ。奇怪な形象が、宙に浮んで、変幻出没して、朧ろな光が、その間に交錯する。ひどく瞬間的で、その瞬間の各々が、永遠の相を帯びている。然し永遠の相は、霧の中に没し去って、その重みのため、瞬間が引歪められ、引歪められ……遂には、空々漠々となる。佗びしい倦怠。平凡なもの、和《なご》やかなもの、眠たげなものが、ぼんやり覘き出す……。記憶の底に、思いがけなく、一種のはがいさで、吉乃の姿が……。
すらりと背の高い、その肌の綺麗なのが特長で、ほそ面の十人並の顔立……。気持よく伸びてる首、無意味に高い鼻、しまりのない唇から洩れる金歯の光、わりに不活溌な、でも物怖じせぬ眼付、それに綺麗な肌を以てして、彼女は、余りにのんきすぎるか、智恵がまわりかねるか、そういったおおまかさを具えていた。湯にはいるのが楽しみらしく、それも肌をみがくではなく、勝手に湯加減をぬるくしておいて、ぼんやりと、長々と、いつまでもつかっていた。「吉乃さんの長湯」といって、大抵の者は知っている。然しその不精らしさにも似ず、彼女は決して顔には湯を使わなかった。入浴の時も、厳寒の朝も、必ず冷水で顔を洗った。誰かに聞いたのか、或は婦人雑誌ででも読んだのか、湯は顔の皮膚を害する、殊に白粉の顔の皮膚を害する、というのを信じていた。そして、「顔は表看板だから……。」
それが、おかみさんを微笑ました。
「……気質《きだて》も素直だし、顔もよい方だし、肌も綺麗だし、旦那の一人や二人、出来ない筈はないんだが……。まったく、看板みたいな妓《こ》だ、どこか、足りないんじゃないかしら……。」
相当な流行妓なのに、失礼な言葉だ。がそれよりも、三四人も妓を抱えているおかみさんとしては、余りに目先の利かない言葉だ。ありようは、彼女の勤めぶりを見ればすぐに分ることだった。彼女は、好意の感情を超越してるらしかった。親疎の感情を超越してるらしかった。云わば、最も公平に商売をした。ひらのお座敷でも、または……。
意地とか張りとか侠気とか、長く培われた伝統は、公平であってはいけないと教えている。表面は公平が立前でも、裏面には不公平がのさばっている。それが人情だ。そこに面白味がある。言葉尻の表情、見交す眼付……刹那に燃え、刹那に消ゆるものであろうと、その光に輝らされて、或は過去の、或は将来の、別種の深い世界が描き出される。それが、陥穽《おとしあな》だ。罠だ、或は逃避所だ。人は獣《けだもの》を真似て、四匍《よつば》いで競争する……公然と。なぜなら、それが人情だから。そしてそれが商売となっている。人情を無視することを原則とする商法の、埓外に出た特殊の商売だ。
それが、ひらのお座敷でも。況んや……。
そんなことを吉乃は考えてはいなかった。然し、無意識的に、商法の原則を守っていた。彼女の眼付は、二重の意志表示をしなかった。しまりのわるい唇は、どの客にも同じように金歯の光を見せた。そしていつも、舌ったるい口の利き方をした。云わば、万人の手の届くところに、陳列棚に、正札をつけて商品をのせていた。公平な商人は、自分の商品の価値を知っており、自分の商品を大事にする。不精なのんきな彼女も、自分の商品を大事にすることは人に劣らなかった。嘗て病気を知らない、というのが彼女の誇りだった。明るく、手際よく、公平に、取引を済した。晴々とした商売だ。
そういう彼女だったから、いつも、客の前に出る時、金入の中には相当の金を用意していた。懇意の客から、欲しいものはと聞かれても、ただ笑っていて、何にもねだらなかった。その代り、出先を馴染の客から呼ばれても、たとい自由のきく時でも、時間まではお座敷をつとめて、貰って行くことをしなかった。そして彼女の唯一の我儘は、どうしても嫌な客の時、お座敷以外は「身体が悪い」ことだった。そんな時は、金銭には依らなかった。商人にも、自分の商品を売るか否かについて、自由意志を持つ権利がある。そして公平な商人は、意志をまげてまで、不当の暴利を貪りはしない。彼女にあって、不当と云えば云える利得は、懇意であろうとなかろうと、金のありそうな客から、お座敷の約束をつけて貰うことだった。時には事後承諾を求めた。そのお約束は、彼女はいろんなことに利用した。あまり隙《ひま》な晩に、または用事に、または仲間への御礼返しに……。だからおかみさんにとっても、彼女はごく忠実な抱えっ妓だった。
そのお約束の客の名に、オーさんというのが次第にふえていって、朋輩の目についた。
「それごらんなさい、何だかだと云ったって、やっぱりねえ……。」
吉乃は笑った。
「そうじゃないわよ。あの人、どうせ、仲間なんだから、丁度いいのよ。」
謎のようなことを云って、それから変に考えこんで、その後で、自分でも不思議そうに、きょとんとした眼を挙げて、また笑った。
その頃、実際にも、オーさんの足は繁くなっていた。
二
岡野信二は、吉乃《よしの》に対して、初めは、快活などこか捨鉢なほど陽気な態度だったが、度重るにつれて、妙に無口に、真面目に、淋しそうになっていった。心の中に、何か悲痛なものが動いてるようで、それも、愛とか恋とか云ったものではなく、ただ期待外れの、心が宙に迷ってるらしく……。そしてじっと、彼女の顔を眺めてることが多かった。
吉乃もそれに気付いたが、それは、彼女の商売とは関係のないことだった。彼女は平然と、自分の職分を守ることが出来た。
そこへ、彼の告白が落ちてきた。
秋の夜の差向いは、淋しい。しいんとしたなかに、どこからか、爪弾《つまびき》の音が伝わってきて、夜更けを告げる。中庭で、笹の葉がさらさらと鳴る……。でも吉乃は、明るかった。甘ったるいのんきな調子で、商売が不景気でも、お稽古が充分出来るのが楽しみだと、そして、お稽古仲間だと、遠くで聴いてても、誰が弾いてるのか、それが分るようになるから面白いと、そんなことを云い云い、爪弾の音色に耳を傾けたりしている。岡野もその方へ、吉乃の言葉へよりも多く耳をかしていた。積り重った伝統的な情緒が、彼を溺らそうとする。彼も溺れようとする。が彼の胸の中には、どす黒い塊りがあった。眼は熱く涙ぐんでいる。自分自身をわきから見守り鞭打ってる気持……。だが、吉乃へは取り縋れなかった。
「君は逢えば逢うほど……。」
「馬鹿に見える?」と吉乃は引取って云ったが……。
彼は、つまった言葉を涙になして、ぼろぼろとこぼしている。
「そう云った人があるわ。」
びっくりして、云い足して、それから彼女は微笑んだ。
然し彼は顔を挙げなかった。
「僕は、汚れてるんだ、汚れてるんだ、聞いてくれ……。」
それが、何のことだかと云えば、前から部分的には話していた、或る未亡人との関係だった。ふとしたことから――意志の弱いため――関係して、ずるずるに引続いて、時々は金も貰う。自分を唾棄する余り、貰った金で遊蕩もする……。それだけだった。
「そして、そのたびに、お金を貰うの?」
岡野は、返辞も出来ないで、罪人のように、悔い改めるように、卓子《テーブル》の上に顔を伏せていた。
吉乃の、あきれたような眼の色が、やがて、澄んで、落付いて、笑みを湛えた。
「それじゃ、つまり、あたしたちと同じじゃないの。ちっとも、恥しいことなんかないわ。」
全く、別世界から来た言葉だった。岡野は顔を挙げた。眼を挙げた。堪え難い調子で口籠った。
「でも……でも……そうじゃないんだ……ちがう……。第一、僕はその金を、何に使ってるか!……。」
「自分でもうけたんだもの。何に使おうと、勝手よ。」
「…………」
風の吹き過ぎた後の空虚と同じで……。
白々とした額、ほんのり酔の出てる頬、空を見てるようなあらわな眼付、唇の間から見えてる金歯、そして鼻が無意味に高い……。その首を、伸び伸びと、綺麗な肌を見せながら、卓子に片肱をつき、片方の肩を落して、横坐りに、裾をさばいて……。それへ、岡野は縋りついていった。
「僕は、君を、好きだ、ほんとに、好きなんだ。初め、自分を、やけくそから、自分で自分を、溝の中に蹴落すような気で、うろつき廻った。自分を、泥まみれにすることが、汚くすることが、せめて腹癒せだった。罪亡しだった。いろんなところへ行った。ただ、自分が汚くなれば、惨めになれば、それが本望で……。然し、君に逢ってから、変に、気持が荒まない……。癪にさわった。だから、これでもか、これでもかと……猶やって来たんだが……駄目だ。君は駄目だ。僕の中のものが、こわれていっちまう。そして、忘れられない。だんだん君を好きになってくる。……どうすればいいんだ。どうにでもしてくれ。どうすれば……。」
云いながら、彼の眼には、冷かな裸像が映っていた。水色の紗に漉された和らかな電燈の光の中、屏風を背景に、立膝で、長襦袢からぬけ出した上半身……。――「背が高いから、なんだけれど、あたし、そんなに痩せてないでしょう。」肌目のこまやかな、なだらかな肉附で……。それが、愛慾の気などみじんもなく、清浄と云えるほど冷かな、大理石の彫像のようだった……。
吉乃は少し身を引いて、固くなっていた。そして、不似合な長い溜息をもらした。
「酒をのんで、騒ぐといいわ。……何か弾きましょうか……あやしいんだけれど……。」
岡野は夢からさめたように、彼女の顔を眺めた。彼女の眼がちらと、極り悪そうに光った。それが彼の顔を輝かした。
「そう、飲もう。酔っ払ってもいいね。……そして、誰か、……君の好きな人でも呼んだら……。」
「いいの、ほんとに……。」
気懸りそうに彼女は笑った。
「じゃあちょっと、聞いてくるわ。」
そして彼女が立っていくと、岡野はじっと眼を据えていたが、急に、卓子の上につっ伏してしまった。
その頃のことを「青柳《あおやぎ》」の女中は、一寸不審そうに眼にとめた。
元気な精力的だった岡野の顔が、肉薄く痩せて、色艶がなくなり、陰欝な影をたたえて、それでいて妙に蒼白く冴えて見えた。その顔をなお引緊めて、ひどく真面目くさい様子でやって来た。以前は人の気につかなかった鼈甲緑の眼鏡が、不調和に目立った。度は低そうだが、その眼鏡の奥に、彼は視線を隠すようにしていた。何だか、「教会堂にはいって行く信者さん、」そういった風なものを思わせた。
座敷は大抵、彼の好きな、奥の階下の六畳……。殆んど口を利かなかった。吉乃が来るまで、一人で黙って酒を飲んでいた。女中の一寸した冗談口にも、蒼白い顔を赤らめることがあった。誰でも、だんだん図々しく場所馴れてくるものだが、彼だけは「丁度その逆様」をいってるようだった。或は、「吉乃さんに真剣に」なってきたかも知れなかった。然し不思議なことには、吉乃が例によって、ほかに出ていてなかなかやって来ないような時、彼は次第に気持がほぐれて、「ふだんの」彼になって、「賑かに」なることがあった。
吉乃の方
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