、許してくれ……。」
胸の中に熱いものがたまってくるのを、吉乃は押えつけた。商売が立前なんだ。何かが壊るれば、凡てが崩れ落ちそうだった。そんな脆いんじゃないと思っても、不安だった。無意識的に踏みしめてきた商売の道、それが、岡野との関係で、はっきりしかけてきた今となって……。
彼女の眼付は、いつになく厳粛になった。そして彼女は酒を飲んだ。敵意的に飲んだ。岡野が泣き出しそうな顔をしているのが、おかしかった。
岡野は、両手で頭をかかえた。
「僕、僕はほんとに誓うよ。……その証拠には、こんど、彼女を、澄代を引張ってきてみせる。」
「どこに。」
「ここに。」
「ばか、ばかな、あなたは、ばかねお坊ちゃん……。」
もう彼女は、酔っていた。泣いてるのか笑ってるのか、自分でも分らなかった。
三
元来の呑気なおおまかな性質が、却って心棒となって、それに達者な八重次の助けもあり、時間も短かかったので、吉乃はわりに楽だった。何よりも「青柳《あおやぎ》」の家でないのがよかった。
それでも、調子は初めから狂っていた。
眼窩のくぼみが感ぜらるる、大きな、ひどく敏活な眼付。それから喉を使わないなめらかな声音で、「こんばんは、」と低く、次に調子よく、「前から、あなたのことはきいていて、逢いたいと思っていました。」――その二つが、ずっしりと胸にきて、吉乃《よしの》は黙ってお辞儀をした。そしてさすがにぎごちなく、それを、そのまま押し通して落付いてしまった。
色古浜の着物、綴錦《つづれにしき》の帯、目立たない派手好みに、帯留の孔雀石の青緑色が、しっくり付いていた。三十五六の、きゃしゃな美貌で、見ようによって、ひどく色っぽくも皮肉にもなる眼付――それに一抹の疲れが見えるのは、眼窩のくぼみのせいらしい。そして何のこだわりもなさそうに、ひそかに吉乃の様子を窺うでもなく、程よく席につかして、八重次に三味線を持たして、自分も低くそれにつけた。
「やっぱり、岸の柳とか、菖蒲浴衣《あやめゆかた》とか。ああいった軽いものの方がいいわね。わたしもともと、吉住の方だけれど……。というと、大層出来そうだけれど……ほほほ。」
そして澄代と八重次とだけで、座をもち続けてくれた。
「こちらも、何か聴かして頂戴よ。」
そう云われても吉乃は、好意のある八重次の視線に縋って、明るく笑っただけで済した。
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