して彼女には、彼が心の中でどんなに悩んでるか、よく分っていた、けれど、彼のその誓が、背教者の涙と同じように、一時的なものだということも、また分っていた。そしておかしなことには彼自身も、自分のその誓が、若いロマンチックなものだということを、知っていた。それでいて、どうにもならなかった。感情の潮が引いて、おのずから出来る空虚な瞬間、彼は彼女を、敬虔な信頼の眼で眺めた。彼女は彼を、愛に似た憐憫の眼で眺めた。
さらさらと、笹の葉の音がすると、寒い……。
岡野はしきりに杯を重ねたが、酒の落着き工合が悪くて、酔わなかった。
「君は……、」口籠って、おずおずとした眼付で、「君は、いつまでこんなことをしていて……。」
「でも、呑気《のんき》でいいのよ。」
上の空の調子で受けて、急に、彼女は真面目になった。
「そのうちに、看板を借りようと思ってるのよ。」
そして、丸抱えで出てるのと自前で出るのとの違いを、商売の自由さの点や、収入の関係など、こまかな数字まで交えて、話しだした。
「それまでには、あなたこそ、あっちの方、早くきりをおつけなさいな。」
「きりをつけたら、どうする……。」
「どうもしないけれど……苦しまないだけでも、いいじゃないの。」
「…………」
彼の身内が震えるのが、彼女の眼にもついた。だが、彼女は踏みこたえた。そして踏みこたえる努力に、自分でもびっくりした。
「きりをつけるよ。立派につけてみせる。」と岡野は云っていた。「僕はそれを誓う。それだけが、僕自身を救う道だ。そして、本当に君に近寄ることになるんだから……。たとい……。」
「いいのよ、もう、そんなこと……。その話、よすの。」
彼の言葉を押っ被せると、彼女は我知らず涙ぐんでいた。その下から、彼は云い張っていた。
「いやだ、何もかも云ってしまわないうちは、いやだ。……。あんな女……のこと、僕は何とも思ってやしない。あんな女……いや、それよりか、君だって、君をだって、僕は愛してるかどうか、自分にも分らない。……ただ、泥の中から、救われたかったんだ。そして君に逢うと、僕の気持は、晴ればれとしてきた、明るくなった。それを、どう云って感謝していいか、分らない。ただ、有難い。僕を救ってくれ。僕は君を愛してやしないかも知れない。君も、僕を愛してやしないだろう。それでもいい。ただ、すがすがしい気持になれば。その外のことは
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