赤くなるのを覚えて、すたすたと足を早めた。そして宿に帰ってすぐに寝た。
それだけのことが、自殺の決心をしていた彼の悲痛な心へ、変に生温くからみついてきた。彼は翌朝、伊豆の方へ向って出発した。前夜二人の女が足を投げ出して坐っていた所には、冷かな朝風が颯々と吹き過ぎていた。
彼は伊豆の温泉に四五日滞在した後、自殺の決心を飜して、急いで東京に戻ってきた。
それから数ヶ月の間、津田洋造は花柳の巷へ屡々出入したが、大学卒業後半年ばかりにして結婚する時から、それをぴたりと止してしまった。その代りに、媒妁人へ向って次の条件を持ち出した。
「私は結婚後は決して遊里へ足を踏み入れはしません。けれども、他に女を――素人の女をかこっておいて、子供を産ませるようなことはあるかも知れません。そのことを承知の上で、そして生れた子供は自分の子として入籍するのを承知なら、すぐにでも結婚しましょう。不承知なら、私の方からお断りします。」
そういう無茶な条件を、媒妁人は先方へ正しく伝えたかどうか疑問だが、兎に角縁談はすぐにまとまって、洋造は結婚してしまった。
結婚後三日目に、彼と妻とは、新婚旅行の旅先で、次のような会話をした。
「お前は私の結婚条件を聞いたろうね。」
「ええ、少しばかり……。」
「そして何と思った。」
「そんなことを表立って云い出す方は、却って信頼出来る人だと思いましたの。」
「では、お前は一生の冒険をして私の所へ来たんだね。」
「と云いますと……。」
「私が実際そんなことをするかも知れないし、またはしないかも知れない、というのを、凡て天に任せるといった気持で……。」
「そうかも知れませんわ。」
「それでは、私がそんなことを実際にするとしたら……。」
「諦めますわ。」
「諦めるって……。」
「影に隠れて変なことをされるよりは、公然とされた方が却ってよいと、そう思い直すつもりですの。」
「お前は可愛いい楽天家だね。」
「あなたは楽天家はお嫌い。」
「いいや、大好きだよ。私には悲観主義くらい嫌なものはない。」
そして津田洋造は、その可愛いい楽天的冒険家たる妻のために、善良なる良人となろうかと、一寸思い直しかけたが、失恋の痛手や江ノ島の橋の感銘は案外根深いもので、新妻に対する彼の愛情を妨げると共に、彼を初めの意向に立還らしてしまった。
「子供を沢山拵えてやれ。恋とか愛とかいう空疎なものをぬきにして、実質的な重みのある子供を思う存分豊富に拵えてやれ。」
そして彼は、友人の紹介で或る秘密な家へ出入して、其処で出逢った女に、先ず腕相撲を挑んだ。大抵は相手にされなかったが、中に一人、顔はそう綺麗でなかったけれど、恰幅のいい腰のどっしり据った女がいて、彼に力一杯ぶつかってきて、何度も彼を打負かした。彼はその女に眼をつけて、遂に自分の所有にして、家を一軒持たしてやった。
それまではまだよかったが、そして其後二三の失敗の後、彼は自家の小間使のお常という女が、いつも頸筋にねっとりと鬢の後れ毛をからみつかせてるのに、ふと眼を惹かれて、その親元と交渉の末、家を一軒持たした時、彼の妻は遂に激昂して生家に帰り、離婚の請求をしてきた。それでも彼女は、自分の産んだ長男一郎を乳母の手に托して、後々の始末を立派につけておいてくれた。
離婚後洋造が最も困ったことは、お千代――腕相撲の強い女――とお常との腹に出来る子供の入籍問題だった。自分の子供は凡て庶子としないで嫡出子とすることに、彼の唯一な道徳的矜持があった。そこへ、折よく再婚問題が起ってきた。相手の女は、彼の会社の下役の娘で、一度結婚したが良人に死なれて、今は自家に戻ってるそうだった。
彼は先ずその女に逢ってみた。蒼白く痩せてはいるが可なりの美貌だった。ただ少し頭にぬけてる所がありはすまいかと思われるほど、無反応な張合いのない人形のような女だった。彼は自ら進んで、自分の過去の経歴や人生観などを語ったが、彼女は黙って聞いてるきりで、彼の失恋のくだりなどにも、眼に涙一つ浮べなかった。そして自分の方の経歴については、余り話したがらなかった。それでも最後には要領よく、彼との結婚を承諾した。それが今の妻の八重子である。
八重子と結婚してからは、洋造の生活は万事順調に進んだ。父の遺産は次第に殖えていった。お千代とお常とは幸に多産で、お千代は五人の子を産み、お常は四人の子を産んだ。それから洋造は、仕事の関係上大阪へ行くことが多かったので、大阪にも一人の妾を置いたが、それが二人の子供を設けた。それらの子供の入籍を、時によると年に二人もの入籍を、八重子は平気で承諾した。ただ八重子自身は、結婚後四年目に、冬子一人を産んだばかりだった。
「兎に角一家繁昌で目出度い。」と津田洋造は考えた。
その目出度い一家の、一人の父親と四人の母
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