ていった。久しぶりに話がはずんで、自分の著述のことまで吹聴しながら、引止められるままずるずると居据って、夕食の馳走にまで預ってしまった。それから、馴れない四五杯の酒に陶然として、一寸話が途絶えた時、実は夕方早く帰って皆と食事を共にするつもりだったことを、後れ馳せに思い出して、慌しく帰りかけた。
もうすっかり暮れてしまって、一日の遊歩から帰り後れた人々や、これから華かな巷へ出かけようとしてる人々などで、電車はぎっしり込んでいた。久保田さんはその中に挾って立ちながら、吊革に一寸左手をかけておいて、きらきらとした街路の燈火を、ぼんやり窓の外に見やっていった。そして頭の中では、課外講演といった風の形式ででもよいから、その大研究の片鱗だけでも学生に聞かしてくれないかと、先刻友人から云われた言葉を、得意然と味っていた。
その時、ふと久保田さんの注意を惹いたものがあった。初めは、甚だ空漠とした芳香みたいなものだったが、それが次第にはっきりとしてきて、一定の形を取って、すぐ前に立ってる人の耳となった。久保田さんは何気なくそれに眼を止めたが、次には一心に見つめ初めた。令嬢風な扮装《いでたち》をした背の高い若い女で、束ね目も見せず一面に縮らした髪の下から、その耳朶がぽっかり覗き出していた。くるくると巻いてやんわり垂れてる薄赤いやつが、殆んど皮膚と地並な白い産毛《うぶげ》に包まれて、赤味がかった細かい縮れ髪の中で、宛も海藻の中に浮いている、小さな水母のように見えたり、生きた貝殼のように見えたりした。光の加減かなんかで、そういう二つの変化を鼻っ先の耳が示す毎に、久保田さんは肩をぴくりとやっていたが、やがて腹の底がむしゃくしゃしてきて、同時に胸の中がもやもやっとしてきて、垂れていた右手を何心なく挙げると、ひょいとその耳の下の端をつまんでしまった。そして、中までふうわりしてきりっとしまった、もちゃもちゃした感じに喫驚したが、間髪を容れずに、縮れっ毛の大きな頭が迅速にぐるりと動いたので、また更に喫驚して、久保田さんはエヘンと大きな咳払いをした。それから殆んど本能的に、袂の煙草を一本探って、すぐに火をつけながらすぱすぱやったが、あたりの皆の眼が一斎にこちらを向いたので、三度喫驚して立竦んだ。丁度その時、車掌台に近い頭の上で、チンチンと二つ鳴ってまたチンと鳴ったので、久保田さんは初めて我に返った
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