非青春人と呼ぶべきであろう。
 こういう時に当って、文芸もまた当然、行動を観照することをやめて、行動の中にはいりこむべきであろう。現在の文芸の苦悩は――更に狭めて文学の苦悩は、題材の不自由困難さなどよりも、本質的には右の一事にある。文学者自身が私の所謂青春人で如何にあろうとも、文学は畢竟、現実の転位の世界であるからして、また根深い伝統を持ってる世界であるからして、そこへ、革新的な青春の可能性をそっくり持ちこむことは容易でない。
 一例をあげれば、行為の綜合が性格であることはたやすく是認されるとしても、性格的心理から行為が出て来るという観点を、行為の中に心理が在るという観点へ、一飛びに転換させることは容易でない。而も、何かの心理を機縁とした行為ではなく、中に心理を含んだ行為そのものをじかに掴まなければ、真に行動の中にはいりこんだことにはならない。
 こういう文学論はさておき、文芸家自身をしてより多く青春人たらしめんがためにも、ここに青春の復活ということが唱道されるべきである。なぜに復活というか、前に述べた輝かしい時期或は時代は、我国の歴史には幾度かあったからである。それを復活させるのだ。
 現今、万葉の詩歌のことがしきりに持出されている。万葉精神についてはいろいろの解説が許されるであろうが、あの詩歌を読んで、吾々が――少くとも私が、最も心を打たれるのは、あの中に溢れてる青春である。斯く云えば、この青春の語が何を意味するかは明かであろう。それは、青年時代の青春というが如きものではない。その自由さ溌剌さは、魂の躍動は、一種の決意に浸透された後のものである。決意に向って、大いなる犠牲に向って、或は大いなる行為に向って、進んでゆこうとする、その前のものではなく、心理的には既に進んでいった後のものである。こういう境地にあっては、詩歌による形象の構成、形象の創造が、一種の輝かしい大いなる建設性を持つ。
 形象の創造が建設性を持つことは、青春の特権である。建設性を持たない形象の創造が、如何に多く文学に氾濫していることであるか。固より、何等かの形象を創りあげることは、これを建設的と云えば云えるかも知れない。然し注意を要するのは、文学に於ては、形象を創ること自体が一の批判となることである。この批判作用が決定的役割をなす。それ故、萎縮し涸渇した形象は、萎縮し涸渇した創造であり、退嬰的な非
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